原作は未見なのだけど、映画「メタモルフォーゼの縁側」(2022年)が良作だった。
「きっと発生するだろう」と予想していた「脚本家が物語を動的なものにするために発生させる、必然性のない安易で余計なトラブル」すべてが発生しない物語というのは、よいものだ。
映画「かもめ食堂」(2006年)は、フィンランドの林内でキノコをとり藁人形を打つので、万人権映画では。
舞台設計が面白い。
舞台となる食堂は、客席スペースの入って右側の壁の上半分が鏡である。登場人物が席に座ったとき、頭のてっぺんが映る高さだ。必然、カメラは鏡への映り込みを避けるために、鏡より下に置かねばならず、座った人を上からのぞき込むようなアングルがとれない。映像は、座った人の目の高さが常に画面の真ん中にくるようにしばりつけられるわけだ(アイレベルという)。そうでない構図にするには、きまって左側の壁を背景に撮らねばならない(店の入り口側は全面ガラスなので、そちらにもカメラを正対させにくい)。
なぜわざわざカメラの上下方向の動きが制約されるような、不便な舞台設計をしたのだろうか。スタッフの頭や、マイクの端が映りこんで撮りなおしとなることもあったはずだ。本作は給仕シーンで長回しが多いので、それだけリスクも高まりそうなものである。
これが意図的なものだとしたら、(1) 登場人物の関係性のフラットさを表現するためではないか。登場人物は、ばらばらな境遇をもっている。しかし対等なシスターフッドをつくる(本作に登場する男は、ガッチャマンかコーヒーミルみたいなモノに執着し、主人公たちには執着しない)。それを描くためには、目線の高さを揃える必要があった。カメラに自由を与えると、画面の中に上下関係をつくってしまうので、アングルをわざと制約した。
あるいは、(2) 生活感やリアリティの希薄な物語の登場人物に、観客を同調させるために、常に登場人物のアイレベルが画面中央にくるようにした。たとえば映画「となりのトトロ」は、シーンによって意図的にカメラの位置を下げ、メイのアイレベルが中央にくるようにしている。観客をメイの行動に同行させるためである。登場人物を上から眺めたアングルは、観客を文字通り客観的な心境においやってしまう。
(3) 単調な画面構成にすることによって、淡々とした時間の流れを観る側にイメージさせるようにした。ただし、これは退屈さでもある。退屈さを避けるために、出演者にオーバーな演技をさせねばならない。俳優に「縁起っぽい演技」をさせたのはそのためだろうか。
一方、厨房の壁には鏡はないようだ。調理するシーンでは、手元を撮らないと何をしているのかわからない(焼いているのが鮭なのか生姜焼きなのかがわかりにくい)。そのためには俯瞰する必要があって、鏡を置かなかったか。