20230902

 地区の子どもに「どうして夏にはスイカがあるのか」と聞かれたが、「どうして」というのは答えづらい。と、当人からは「私は夏だからシャーベットみたいになっているからだと思う」との言。「じゃあ冬は」と問うと、「融けていると思う」(氷みたいに固まっているのではないらしい)。なるほど、道理で冬には見かけないはずである。

 私は「冬になったら凍るから硬くなるのでは」と食い下がったが、どうしても「融ける」という。これは、シャーベットが時間の経過とともに融けてしまうことから連想した結果で、夏のあとが冬と認識されているためであろう(温度変化による因果関係ではなくて、時間経過による変化だけが認識されている)。

 もしかすると我々がもっているスイカ像は、冷凍技術が発達し、庶民が夏に氷を食べられるようになってから(シャーベットに似せて)品種改良された結果であって、それ以前の果肉はプリンのような食感であったのかもしれない。また、スイカは冬になると融けてしまうが、原産地であるアフリカには日本のような冬はないので、年中スイカがとれる。

20230902

 パロディはよくないと思っているが、

顔を食べさせるのだけど、中身が本人にもわかっていない「おやきマン」

みたいなストーリーが頭に思い浮かんで離れないことがある。あんこだとばかり思っていたら、切り干し大根とか野沢菜が中身のことがある。

20230901

ニシザワ食彩館信大前店の駐車場を、裏の方の出入り口から出て左に曲がり、すぐに右に曲がると、Inadani Seesが見える。そこにいつも路線バスが停まっている。近寄るとバスではなくて駐輪場の屋根と支柱であることがわかるのだけど、それを「駐輪場だ」と認識するまでの束の間、そこには確かにバスがあるのだ。それが面白いので、最近そっちの道を通る。

20230818

 桑原太矩『空挺ドラゴンズ』は漫画版「ナウシカ」を意識したペンタッチで(初期のころはセリフも意図的に真似ていた)、主人公たちが飛行船に乗っているという点では「ラピュタ」をオマージュしているのだけど、それを堂々とやると立派に一つの作品になる、ということをあらわしている。とてもおすすめ。

 海→空、鯨→龍、という置き換えをしている作品なので、「空挺ドラゴンズ」は「大洋ホエールズ」が元ネタなのだと思ってるのだけど、まだ劇中で野球(に類する競技)は始めない。

20230817

 原作は未見なのだけど、映画「メタモルフォーゼの縁側」(2022年)が良作だった。

 「きっと発生するだろう」と予想していた「脚本家が物語を動的なものにするために発生させる、必然性のない安易で余計なトラブル」すべてが発生しない物語というのは、よいものだ。

 映画「かもめ食堂」(2006年)は、フィンランドの林内でキノコをとり藁人形を打つので、万人権映画では。

 舞台設計が面白い。

 舞台となる食堂は、客席スペースの入って右側の壁の上半分が鏡である。登場人物が席に座ったとき、頭のてっぺんが映る高さだ。必然、カメラは鏡への映り込みを避けるために、鏡より下に置かねばならず、座った人を上からのぞき込むようなアングルがとれない。映像は、座った人の目の高さが常に画面の真ん中にくるようにしばりつけられるわけだ(アイレベルという)。そうでない構図にするには、きまって左側の壁を背景に撮らねばならない(店の入り口側は全面ガラスなので、そちらにもカメラを正対させにくい)。

 なぜわざわざカメラの上下方向の動きが制約されるような、不便な舞台設計をしたのだろうか。スタッフの頭や、マイクの端が映りこんで撮りなおしとなることもあったはずだ。本作は給仕シーンで長回しが多いので、それだけリスクも高まりそうなものである。

 これが意図的なものだとしたら、(1) 登場人物の関係性のフラットさを表現するためではないか。登場人物は、ばらばらな境遇をもっている。しかし対等なシスターフッドをつくる(本作に登場する男は、ガッチャマンかコーヒーミルみたいなモノに執着し、主人公たちには執着しない)。それを描くためには、目線の高さを揃える必要があった。カメラに自由を与えると、画面の中に上下関係をつくってしまうので、アングルをわざと制約した。

 あるいは、(2) 生活感やリアリティの希薄な物語の登場人物に、観客を同調させるために、常に登場人物のアイレベルが画面中央にくるようにした。たとえば映画「となりのトトロ」は、シーンによって意図的にカメラの位置を下げ、メイのアイレベルが中央にくるようにしている。観客をメイの行動に同行させるためである。登場人物を上から眺めたアングルは、観客を文字通り客観的な心境においやってしまう。

 (3) 単調な画面構成にすることによって、淡々とした時間の流れを観る側にイメージさせるようにした。ただし、これは退屈さでもある。退屈さを避けるために、出演者にオーバーな演技をさせねばならない。俳優に「縁起っぽい演技」をさせたのはそのためだろうか。

 一方、厨房の壁には鏡はないようだ。調理するシーンでは、手元を撮らないと何をしているのかわからない(焼いているのが鮭なのか生姜焼きなのかがわかりにくい)。そのためには俯瞰する必要があって、鏡を置かなかったか。

20230816

 地区の区民祭を開催した。私が入区してからは、コロナ禍で開催できていなかった。分館長として、「一度も見たことがない祭を開催する」という点では、それなりに成功したと思う(もちろん、各係のはたらきがあってこそである)。

 終わったあとに、ビールと焼酎のサーバーに余りがあったので、役員で飲んでいたが、私はひっくり返ってしまった。がたがた震えたので、軽い急性アルコール中毒だったかもしれない。まことにお恥ずかしい限り。

20230816

描き分けができないことを「ハンコ絵」と悪く言ったりするのだけど、源氏物語絵巻の引目鉤鼻をそうは呼ばないのはなぜだろうか。あれも当時は描き分けできてないと言われたんだろうか。登場人物が服装でしか区別できないぞ、とか。当時はハンコ文化じゃないからか。

20230814

 必要があって千葉聡『招かれた天敵』(みすず書房、2023)を読んだ。

 たった5頭のアフリカマイマイというカタツムリが持ち出された結果、太平洋の諸島に蔓延し、その駆除のために導入された肉食カタツムリ(ヤマヒタチオビ、キブツネジレガイ)が効果をあげず、かわりに各地の在来のカタツムリを次々と絶滅させ、アフリカマイマイ根絶のさらなる切り札として肉食陸生プラナリアのニューギニアヤリガタリクウズムシが(これも効果は疑わしいのに)非公式に移入され、こいつがあらゆるものの隙間に入って蔓延し、ちぎってもちぎれたところから再生して拡散し、人類が薬品・土木・電気による防壁を建設するもむなしく(最後の電気防壁はかなり効果を上げるが、台風によるたった3日の機能停止で破られてしまう)小笠原の父島の在来カタツムリを絶滅させてしまうところは、小川一水のSF小説にありそうな絶望感であった。

「侵入したウズムシは、たちまち増殖拡散し、鳥山半島全域を占拠した。半島内でカタマイマイ類が生息する地点は、半島の付け根から先へと順に塗りつぶされるように消えていった。2017年には、半島内で生きたカタマイマイ類は1頭も見つからなくなり、ついに絶滅したものと判断された。

 こうして父島のカタマイマイ類は、野生下にて絶滅した。」

――という書き方とか。わかりますかねこの感じ。『天冥の標』の、太陽系が発する赤外線量が下がった、みたいな「どうするんだよこれから」という感じです。こっちはSFじゃなくて現実の災難なのですが(しかも著者は対策の担当者で、失敗を体験している)。

20230810

 映画「モンタナの目撃者」(2021年)、アンジェリーナ・ジョリー演ずる主人公は森林局の森林消防隊員なので、林業映画といってよいでしょう。消すのは火じゃないけど。

 字幕で「とがった斧」みたいな書き方をしてたが、あれは丸太用のトビではないかと思う。

20230809

コロナ前の祭(AFC祭)から開催形態が変わるので、各店がどういう形のものを出すのか予測がつかない。だから図ではお茶をにごした。「ヨーロッパの広場に出てきている、おしゃれっぽいあれ」を何の資料も見ずに描いたら「山車」になった。「来てみなさい」の上伊那方言は「来(き)てみらし」じゃなくて「来(こ)らし」じゃないかと後から気づいたが、村観光協会もそのように表記しているのでいいことにした。配色の知恵がないので、目立つなら黄色と赤色だろうと塗ってみて、なんか不思議だなと感じたが、これは からしの配色ですね(だから「みらし」と頭の中で情報が衝突して読めなくなる)。マルシェといえば西田ひかる(古い)。ブーケガルニ。一応、「がけの下(コロナ)から祭が戻ってきた」という寓意があるのですよ。描いてる途中でパースがあわなくなって妙な感じになってますが。このポスターを見た人から、「これは屋台をイメージしてるんですよね?」と訊かれて、「いまのギャグはこういうふうな面白さを狙ったんですよね」と指摘されるような羞恥を感じた。