自分の研究室や担任学年の学生の保護者はいなくても、後援会(保護者会)の懇親会には金を払って顔はだす。学部において、私はかなり社交的(社会の慣習に従うという点で)なほうだと思うのだ。
岩手大学で、事務の人と仕事をするなかで「よんだ客と同じ数の頭数はそろえるものだ」ということを教えられたので、それに従っている。
自分の研究室や担任学年の学生の保護者はいなくても、後援会(保護者会)の懇親会には金を払って顔はだす。学部において、私はかなり社交的(社会の慣習に従うという点で)なほうだと思うのだ。
岩手大学で、事務の人と仕事をするなかで「よんだ客と同じ数の頭数はそろえるものだ」ということを教えられたので、それに従っている。
「箕輪町森林ビジョン検討委員会」の現地視察で見た場所の一つ。委員には様々な人がいるので、「ビジョン」を作るにあたって、町内の問題となっている場所やこれまでの成果など「同じもの」を見るというのは大切だと思い、委員長(私)から提案して見学を組んでもらったものである(鈴木春彦『地域森林とフォレスター』にも、現場で話をする重要性が書かれている)。
この現場は、2年前の8月豪雨で川が増水して倒木がでてしまった。道が細いので今のところ搬出はできていない。川岸はえぐれたが、石仏のところで止まっている。
これを「むかしの人は河川氾濫の範囲を知っていたのだ(だから石仏は難を逃れたのだ)」と考えるのは生存者バイアス(錯覚)である。これより川側にも石仏があり、それは流されたかもしれないからだ。石仏を設置するために大きめの岩が選ばれ、その結果流されなかった、ということであろう。そもそもこの石仏は災害碑ではなく、「為人馬険難安全……」と書いてあるので山道の交通安全の碑(馬頭観音)である。そこのところさすが委員のみなさんは的確で、「次は流される」とおっしゃっていた。保存するなら今のうちに移設するのがよいと思う。
河川への倒木をどうするかは難しい。片づけるのが最善だろうけど、事情あってそういかないところもあるだろう。倒木を短く刻めば少しの水量でも流れていってしまうし、大きければいざ流れたときに橋に引っかかって川を堰き止めてしまう。私は、集落近辺の谷部の樹高は低く抑えるべきだと思っているけれど、河川というものは長く伸びており、そんなに簡単にできることでもない。
上伊那の山で「じゅうはっさい」と言ったら、18歳ではなくて「18災」、2006年(平成18年)7月豪雨のことである。「さぶろく」といえば、労使協定ではなくて1961年(昭和36年)の「三六災害」。
喫茶店の「エクセルシオール(EXCELSIOR)」という店名は、どういう意味なのか、という疑問をもちつつ隣の席を見たら、ノートパソコンのキーボードを高い音で打鍵してエクセルに数値を入力しているおじさんが目に入った。もしや、この店名は
「 エ ク セ ル し よ る 」
なのか!?
「EX」を「元」と考えると、「元セルシオ」。のちのマジェスタだ(もうないけど)。
――などと思いながら店内のwifiを探すと、「ドトール」と書いてある。あからさまに怪しいぞ、ハッキングされるのか、といぶかしんだが、エクセルシオールはドトール系なんですね。知らなかった。
で、「ドトール」というのはポルトガル語で「博士」の意で、創業者がブラジルにいたときに住んでたサンパウロ市は「ピント・フェライス博士通り」にちなむそうである。Antonio Januario Pinto Ferraz 博士は法学者。だけどミラノサンドを売ってるぞ。不思議だ。
映画「モスラ」(1961年)を初めてみた。
南海の孤島から小美人をさらったら、それを取り返すために巨大な蛾がやってきて大パニック、という単純な話だが、それだけの話のために広く大きい模型を使って特撮撮影しているのが恐れ入った。モスラはわりとかわいい。
巨大な菌類が茂る森から、巨大な虫が人間の力など ものともせずやってきて暴れ回り、それをなだめられるのは不思議な力をもった乙女だけ、というのは明らかに「風の谷のナウシカ」の原型だ。しかし「モスラ」を観た人は多かったが、その中から「ナウシカ」を作り得たのは1人だけというのも、また興味深い。「華麗なるヒコーキ野郎」(1975年)も「ドーバー海峡の大空中戦」(犬のホームズの)や「紅の豚」のあれこれの元ネタなのだけど、万人が「ヒコーキ野郎」みて「ドーバー」「豚」を作れるかというと、そうはならない。まことに換骨奪胎とは難しい。
玄関にぶら下げてある自転車のヘルメットをかぶろうと中をのぞいたら、アオガエルの尻が見えた。むこうはあわてて体を回してこちらを見上げた。『てぶくろ』だ。さっきまでクマも入っていたにちがいない。
日本では、樹木を伐り倒すときに、切り株と丸太とを最後までつないでいる部分を「つる」とよぶ。語源は「蔓」だろう。切り株と丸太を線状のものでつないでいるイメージである。機能的には、倒れようとする木の回転軸を固定するための、ドアのちょうつがい(ヒンジ)のような役割なのだけど、「ちょうつがい」とは言わない(海外ではヒンジと呼ぶ)。
これは何でなのかと当てずっぽうで考えてみるに、
仮説① 日本家屋にはドアがなく(城の門など限定的)、引き戸で構成されているから
仮説② 日本の伐倒技術はビーバーのように木を削って倒す技術段階から、「三つ紐伐り」を経て、こうした伐倒方法になっており、三つ「紐」のような線状の接続のイメージを持っていたから
ではないだろうか。
私は熱血漢ではないので、
と思っている。それも地域の選択、自治である。
食器を洗っているときなどの、ふとした瞬間に「オオマツヨイグサ」は「パラサウロロフス」に似ている、と感じるのだけど、なぜ似ていると感じるのか子細に検討してもわからない(母音が同じということもない。ooauoiua / aaauoouu)。ちなみにオオマツヨイグサは見てもわからないし、パラサウロロフスも見たことはない。
ここを通りかかるたび、「『深志』はドラゴンと読むに違いない」と思っている。松本ドラゴン高校。深(おお)志(とかげ)かもしれない。なぜマンションに爬虫類の名前をつけているのかは分からないながら。
コモドオオトカゲのKomodoは島の名前で、この建物のComodoはイタリア語で「お気楽な」という意味らしい。お気楽おおとかげ。