なるほどと思うことがあった。
大芝高原で、ちょっとしたウォーキングイベントをやった。私は一応、実施側である。その受付場所にいたら、近くを歩いていた(私たちの一団とは関係のない)人が転倒した。
これは、と数名が駆けつけ、私は受付にあったイスを持っていって座らせた。片足に力が入らず、立てない状況である。脱臼など機械的な損傷か、熱中症など非機械的な損傷が考えられるだろう。さてどうするか。
しばらくして落ち着くと、その人がご自身で家に電話をかけ、家族に来てもらうことになった(どうも機械的損傷である)。しかし、林内の歩道の「今いる場所」を口頭で伝えるのは難しいものだ。うまく伝わらない。聞けば、大芝までは車を運転して来たという。それならば、自分の車まで戻ればわかるかもしれない。「いつもの駐車場」で向かっている家族もわかるという。
この人を移動させねばならない。どうやって。肩を貸すとかは距離的にみて非現実的である。そうだ、車いすものがあるではないか。大芝なら店内に常備されているかもしれない。
はたして売店にそれはあった(南箕輪村、さすがである)。借りてきて、座ってもらい、駐車場まで移動させて、ややあって到着した家族に引き渡した。
車いすを戻しにいく途中に、はて、自分はどうして「車いすを売店に探しに行こう」と思いつくまでに、これほどの時間を要したのだろう、と考えた。
思いつくまでに要した状況の変化は次のようなものだ。
『立てない→ イスに座らせよう→ 家族をよぶ→ 歩道には車が入れない→ 車が来るところまでこの人を移動させねばならない→ 車いすが必要だ(探しに行かねば)』
これは、どうして
『立てない→ 車いすが必要だ』
とはならなかったのだろうか。立てないのだから、遅かれ早かれ、この人を移動させる必要はでてきたはずだ。症状をみるのはその場にいた他の人にまかせ、自分は移動手段の確保にむかえばよかったのである。
思うに、「この人はなぜ立てなくなっているのか」を思案したからではないか。情報があっても私には判断できないことなのに、それをしようとして時間を消費した。状況だけから必要なものを判断しなかったのである。
帰宅して、背負っていたバッグをあけて、もう一つのことに気づいた。
私はこの日、熱中症の人が出たときの一次処置のために、殴ると冷えるあれ(正式名称がわからない。化学反応で冷やすあれ)を何袋かバッグに入れていた。それを使わなかったことに、である。
この人は熱中症ではないようだ、とわかったところで、これの存在は頭の中から消えていた。冷えるのだから、足にあてがうとかもできたはずだ。これを「冷える便利なもの」ではなく「熱中症の対処に使うもの」だという観念の固定が生じていたわけだ。
この出来事のレポートでBEAは、緊急時においては状況の原因を究明することよりも、いま生じている状況に必要なものをまずは用意すること、それから備品が転用できないか検討すること、およびそのための訓練を勧告しました。この経験によって航空業界は重要な教訓を得、以前よりも安全が確保された状態になっています。(『メーデー!』のお決まりの締めくくり)
『メーデー!』をみていると、なにかの事態が発生したときには「まずコーヒーを頼め」(事態から自分を離し、全体を俯瞰できる余裕をもて)という教訓が出てくるのだけど、こうした軽微な出来事でも、なるほどそうなのである。
もし私がこれまでに、車いすや、殴って冷やすあれを使う訓練をしていたなら、対応はちがったかもしれない。実は、「担架を使うか?(しかしこの人数では持てないな……)」は早い段階で頭の中にあったのである。担架は消防団の積載車の中に入っているからだ。