20230806

 なるほどと思うことがあった。

 大芝高原で、ちょっとしたウォーキングイベントをやった。私は一応、実施側である。その受付場所にいたら、近くを歩いていた(私たちの一団とは関係のない)人が転倒した。

 これは、と数名が駆けつけ、私は受付にあったイスを持っていって座らせた。片足に力が入らず、立てない状況である。脱臼など機械的な損傷か、熱中症など非機械的な損傷が考えられるだろう。さてどうするか。

 しばらくして落ち着くと、その人がご自身で家に電話をかけ、家族に来てもらうことになった(どうも機械的損傷である)。しかし、林内の歩道の「今いる場所」を口頭で伝えるのは難しいものだ。うまく伝わらない。聞けば、大芝までは車を運転して来たという。それならば、自分の車まで戻ればわかるかもしれない。「いつもの駐車場」で向かっている家族もわかるという。

 この人を移動させねばならない。どうやって。肩を貸すとかは距離的にみて非現実的である。そうだ、車いすものがあるではないか。大芝なら店内に常備されているかもしれない。

 はたして売店にそれはあった(南箕輪村、さすがである)。借りてきて、座ってもらい、駐車場まで移動させて、ややあって到着した家族に引き渡した。

 

 車いすを戻しにいく途中に、はて、自分はどうして「車いすを売店に探しに行こう」と思いつくまでに、これほどの時間を要したのだろう、と考えた。

 思いつくまでに要した状況の変化は次のようなものだ。

『立てない→ イスに座らせよう→ 家族をよぶ→ 歩道には車が入れない→ 車が来るところまでこの人を移動させねばならない→ 車いすが必要だ(探しに行かねば)』

 これは、どうして

『立てない→ 車いすが必要だ』

とはならなかったのだろうか。立てないのだから、遅かれ早かれ、この人を移動させる必要はでてきたはずだ。症状をみるのはその場にいた他の人にまかせ、自分は移動手段の確保にむかえばよかったのである。

 思うに、「この人はなぜ立てなくなっているのか」を思案したからではないか。情報があっても私には判断できないことなのに、それをしようとして時間を消費した。状況だけから必要なものを判断しなかったのである。

 

 帰宅して、背負っていたバッグをあけて、もう一つのことに気づいた。

 私はこの日、熱中症の人が出たときの一次処置のために、殴ると冷えるあれ(正式名称がわからない。化学反応で冷やすあれ)を何袋かバッグに入れていた。それを使わなかったことに、である。

 この人は熱中症ではないようだ、とわかったところで、これの存在は頭の中から消えていた。冷えるのだから、足にあてがうとかもできたはずだ。これを「冷える便利なもの」ではなく「熱中症の対処に使うもの」だという観念の固定が生じていたわけだ。

 

 この出来事のレポートでBEAは、緊急時においては状況の原因を究明することよりも、いま生じている状況に必要なものをまずは用意すること、それから備品が転用できないか検討すること、およびそのための訓練を勧告しました。この経験によって航空業界は重要な教訓を得、以前よりも安全が確保された状態になっています。(『メーデー!』のお決まりの締めくくり)

 『メーデー!』をみていると、なにかの事態が発生したときには「まずコーヒーを頼め」(事態から自分を離し、全体を俯瞰できる余裕をもて)という教訓が出てくるのだけど、こうした軽微な出来事でも、なるほどそうなのである。

 もし私がこれまでに、車いすや、殴って冷やすあれを使う訓練をしていたなら、対応はちがったかもしれない。実は、「担架を使うか?(しかしこの人数では持てないな……)」は早い段階で頭の中にあったのである。担架は消防団の積載車の中に入っているからだ。

20230806

箕輪の郵便局を大芝方面にちょっといった左側に、ブラジル式ハンバーガー屋があらわれた。店名は「インペーリオ・ダス・デリーシアス」(Império das Delícias)というらしい。「うまさの帝国」? ブラジル帝国(1822~89)と関係が……? あるいは店内にいた二人のどちらかが「美味さの皇帝」、つまり「味皇

20230806

 「明日は『ろくどうっぱら』に祖母を迎えにいく」と聞いた。老人ホームか何かかと一瞬思ったが、頭の中で漢字に変換して驚いた。「六道」とはただならぬ。

 写真の中央にみえる平地林が「六道原」で、遊ぶ場所ではないと子どものころから戒められていたという。現し世と隠り世の境なのである。ここから松の葉に乗せて先祖を家に連れ帰るのである。天竜川の西岸側の人々は、毎日あそこに異界の口があるのだと見ながら生活をしてきたんだろうか。

 この林はどうもアカマツである。これは樹幹注入して保存するのがよいと思う。

20230805

 花火が鳴っていると、こちらが夏らしいことをまだしていないのに、季節を一方的に秋方向へ進めようとしている気がして腹立たしい。おのれ花火。

 

 必要があって絵巻を参照しているのだけど、絵巻の題材というのはどう選択されているのだろうか。

 「源氏物語絵巻」とかは、まさに絵巻にすべきもの、という感じがするし、「地獄草紙」も仏教をおしえるものとしてわかる。

 しかし「伴大納言絵詞」はどうだ。放火事件である。「紫式部日記絵巻」は、作家のエピソード集だ。

 紙や画材が貴重ななか、しかも絵巻を目にすることができる人も限られていたなかで、「ちょっと絵にしてみた」という感じではなかったはずだ。いまの感覚でいえば、コミカライズというより、「あの歴史的放火事件の真相を描いた問題作! 応天門を総天然色で完全再現! この夏、あなたは真実を目撃する」とうたう映画みたいなものなんだろうか。

20230803

企業が公共の街路樹に除草剤を用いる不法行為をおこなったらしい、というところから、それに使われたとおぼしき除草剤が売れ、そのメーカーの株価が上がる、というのは、きわまっていて私が著者なら『資本論』に書きたい事例。

20230803

 穴埋め問題のようなテストは、検索すれば出てくるので、「次の文章に含まれている誤りを指摘し、正しい内容になるように修正せよ」「次の(AはBの解決に役立つ、という)説明の問題点を指摘せよ」という問題を作成した。ところが、これをAIに解かせたら、合格点を与えてよい答案がでてきた。林業はマイナーな分野で、AIの学習サンプルになるような文書量がないから、とんちんかんな答えになるかと思っていたのだが。おそるべし。

 AIにできない人間に独特のことといえば、「疑問をもつこと」であろうか。「空はどうして青いのか」という答えは、機械が正しく答えられる。しかし空が青いことを不思議に思うのは人間のわざである。

20230802

区内全戸に配る「分館だより」に好き勝手に絵を描いてるのだが、区の会議で区民祭の告知チラシを配ったら、隣の席の人が「左利きの子がいますね」とすぐに気づいて、世の中わるいことを気づかれずにやりおおせることはできないなと恐れ入ったです。

20230729

 韓国映画をいくつか観ていると、笑いのポイントが違うのが面白い。アクション映画はスプラッタなほうがウケるのか、ずいぶん痛そうな描写があるのに、では全編ハードな感じでいくかというとそうでもなく、リアリティを失わせるようなコテコテのギャグをはさむ。緊張感が高まりっぱなしにならないようにするのが好まれるのかもしれない。

 「白頭山大噴火」(2019年)は、マ・ドンソクが出てくるのに暴れず、おとなしく火山学者をやっているという、変わったディザスター映画だった。そりゃそうか。この人がいつも殴る役ばかりでは映画の区別がつかなくなる。終盤までうまくやりおおせたのだから、最後まで知恵で乗り切ったほうが私は感動するのだけど、メロドラマ要素があったほうがウケるのか……これは日本映画でも同じか。

 「新感染」(2016年)は確かによい映画だったが、いまひとつな出来の「新感染半島」(2020年)も、1作目と同じことはやらないという点は感心した。

20230724

 食パンは、なんで裂きやすい方向が決まっているのか。焼くときに縦方向にグルテンが引き伸ばされるからだということなのだけど、ではぐるぐる回して焼けば異方性のないパンになるのだろうか。

 近所でツキノワグマの親子が目撃されたということで、警察車両が放送をして回っていた。庭で視界のはしに何か黒いものをとらえてギョッとした。ネコだった。

20230701

 雨が降り始めてきたが、なお草刈りを続けていたら、なにかの虫に刺された。事故は「あと少し」と欲をかいた最後の数分におこるという。しかしこれは本当だろうか。事故が発生すれば作業を中断するのだから、最後の数分間におこるのは当然である――とか考えつつ、やはり「ここで終わり」というときには終わるべきだと反省した。腫れている。