最近の学生は独創性がないとか活動的でないというのは、たしかに私もそうかなと思うところもあるのだけど、学生が独創性を発揮するという際には、こちら(権力側)にとっては眉をひそめるようなことをするかもしれないのです。
酔って便器を割ったり、壁を蹴って穴をあけたり、夜ごと気勢を上げてご近所とトラブルをおこしたり、きたならしいハッピや下駄をはいてきたり、堀やら噴水に浸かったり、遊び三昧で留年したり。何しろ活動性をどの方位に向けてよいのかわからないのが若さなので。そういう、正直くそみたいなものの中から、年寄りから見て「ほう、これはなかなかやりますな」というのが1つか2つ出てくる(かもしれない)。
だからくそみたいなのを、眉はたっぷりひそめつつも、しかし許容する度量がなければならないと思うのです。個体群は多様なので、みんながアントレプレナー方向で独創性や活動性を発揮するわけがない。
たとえばですよ、学生が構内の空いてる地面でトマト育て始めたら我々はどうするの。抜くの、抜かないの、どっち※。独創性を問われてるのは我々権力側なのでは。
「わたしは権力を行使していない」という人もいるかもしれないけど、教える‐教えられる関係がある以上、こちらは権力なのだ。直接的に権力をふるわなくても、学生がこちらを忖度するような、パノプティコンをつくってるの我々は。毎時限ごとにQRコード読み取らせたりしてよ。フーコーもびっくりよ。
大学が自由でなければ、社会のどこが自由なんだ、と思う。自由な社会を滅ぼすのは、大学の管理である。