20231128

 目を洗われることがあった。

 伊那西小学校には、敷地と連続した学校林がある。「林間」とよばれ、面積はそれほど大きくないものの、生徒が毎日入る空間だ。林床にランニングコースがあり、生徒も草刈りをして維持している。林木の根本に、生徒の名前を書いたプレートが立てられている。これは「わたしの木」といって、生徒各人が自分の気に入った木を相棒とする風習である。昨日、県の森林税(森づくり県民税)の検討委員会で訪問したときには、生徒が落枝を採取していた。視察のための「やらせ」ではなくて、明日焼き芋をするから集めているという。これほどの利用をされる林分はそうあるまい。第一級の里山だ。

 写真を見られたい。広葉樹が萌芽して株立ちしている。これをどのように管理するか。

 一般的には、一つ二つを残して、あとは切るだろう。ところが、ここではあえてそうしていない。

 生徒が、ランニングするときの日よけ(下の写真のようなトンネル)がほしいと主張した結果である。

 萌芽整理(芽かき)をするのは、薪炭やキノコ原木を得るためだ。が、この場所の生徒の利用目的は、それではない。生徒の背丈にあわせた茂みであることが重要なのである。

 森林管理は、目的があって、施業(作業)がある。ところが私は「広葉樹なら整理をするのがのぞましい」と、なんとなく考えていた。目的の欠如だ。森林が資本蓄積・商品生産=木材生産の場に単純化するのが近代化であり、それを批判するのが私の研究的立場なのだが、自分自身の視角がかなり限定的であったわけだ。

 それを小学生から教わった。