喫茶店で面白い会話に出会った。
その一団は、最近の日本語表現の問題点を話していて、「させていただく」表現に議論が及んだ。私も、言語とは移り変わっていくものだと承知しながらも、旧世紀の人間として、この表現を苦々しく聞く側である。
喫茶する人々によって、「させていただく」のよくないところは、次のように分析されていた。
――これは使役の「させる」を用いているので「やらされている」という含意がある。たとえば会議で『議長をつとめさせていただきます、だれだれです』と言っている場合は、「本来はやりたくないが、議長に任命されたので仕方なく努めます」という意味である。やりたくないのなら、やらなければいい。いやいやながらやるとあえて言う点がよくない。
これは面白い。なぜかというと、私の解釈とまったく逆だからだ。「させていただく」表現のいやらしさを私は次のように考える。
――「させていただく」は以前から存在した。かつてから許容されていた使用例を挙げれば、ドラマで妻が離縁を切り出すときの『実家に帰ら(さ)せていただきます』である(さ入れ表現)。これは、相手(夫)に実家に帰れと言われて帰されるのではなくて、相手の意思を問わずに(相手の意に反して)自主的に帰ることを主張している。『議長をつとめさせていただく』と言えば、「あなたがたは私が議長に就くべきではないとお思いでしょうが、あえて私が議長を務める」という意味である。つまり、いちいち「私は不適格かもしれないが……」と過度にへりくだるのがいやらしいのである。
喫茶団は、話者の「やろう」という意思のなさ(受動的にやらされていること)を問題視する。私は、話者には「やろう」という意思があるのにも関わらず、過剰にへりくだることを問題視する。解釈が逆なのに、「させていただく」が気に入らないのはどちらも同じなのだ。要するに、どっちも歳をとったから、気に入らないから理由を探しているのだ。
日本語には、長ければ長いほど、表現が過剰であれば過剰であるほど丁寧である、という習慣がある(他の言語でも同じかもしれない)。これは今に始まったことではなく、昔からそうなのだ。丁寧=冗長表現は、すぐに陳腐化するので、次々と珍奇な表現が出てくる。その古い冗長表現を、われわれは「丁寧だ」「奥ゆかしい」「美しい」「心配りが行き届いている」と感じ、新しいほうを「言葉の乱れだ」と感じるだけのことではないか。