20230818

 桑原太矩『空挺ドラゴンズ』は漫画版「ナウシカ」を意識したペンタッチで(初期のころはセリフも意図的に真似ていた)、主人公たちが飛行船に乗っているという点では「ラピュタ」をオマージュしているのだけど、それを堂々とやると立派に一つの作品になる、ということをあらわしている。とてもおすすめ。

 海→空、鯨→龍、という置き換えをしている作品なので、「空挺ドラゴンズ」は「大洋ホエールズ」が元ネタなのだと思ってるのだけど、まだ劇中で野球(に類する競技)は始めない。

20230817

 原作は未見なのだけど、映画「メタモルフォーゼの縁側」(2022年)が良作だった。

 「きっと発生するだろう」と予想していた「脚本家が物語を動的なものにするために発生させる、必然性のない安易で余計なトラブル」すべてが発生しない物語というのは、よいものだ。

 映画「かもめ食堂」(2006年)は、フィンランドの林内でキノコをとり藁人形を打つので、万人権映画では。

 舞台設計が面白い。

 舞台となる食堂は、客席スペースの入って右側の壁の上半分が鏡である。登場人物が席に座ったとき、頭のてっぺんが映る高さだ。必然、カメラは鏡への映り込みを避けるために、鏡より下に置かねばならず、座った人を上からのぞき込むようなアングルがとれない。映像は、座った人の目の高さが常に画面の真ん中にくるようにしばりつけられるわけだ(アイレベルという)。そうでない構図にするには、きまって左側の壁を背景に撮らねばならない(店の入り口側は全面ガラスなので、そちらにもカメラを正対させにくい)。

 なぜわざわざカメラの上下方向の動きが制約されるような、不便な舞台設計をしたのだろうか。スタッフの頭や、マイクの端が映りこんで撮りなおしとなることもあったはずだ。本作は給仕シーンで長回しが多いので、それだけリスクも高まりそうなものである。

 これが意図的なものだとしたら、(1) 登場人物の関係性のフラットさを表現するためではないか。登場人物は、ばらばらな境遇をもっている。しかし対等なシスターフッドをつくる(本作に登場する男は、ガッチャマンかコーヒーミルみたいなモノに執着し、主人公たちには執着しない)。それを描くためには、目線の高さを揃える必要があった。カメラに自由を与えると、画面の中に上下関係をつくってしまうので、アングルをわざと制約した。

 あるいは、(2) 生活感やリアリティの希薄な物語の登場人物に、観客を同調させるために、常に登場人物のアイレベルが画面中央にくるようにした。たとえば映画「となりのトトロ」は、シーンによって意図的にカメラの位置を下げ、メイのアイレベルが中央にくるようにしている。観客をメイの行動に同行させるためである。登場人物を上から眺めたアングルは、観客を文字通り客観的な心境においやってしまう。

 (3) 単調な画面構成にすることによって、淡々とした時間の流れを観る側にイメージさせるようにした。ただし、これは退屈さでもある。退屈さを避けるために、出演者にオーバーな演技をさせねばならない。俳優に「縁起っぽい演技」をさせたのはそのためだろうか。

 一方、厨房の壁には鏡はないようだ。調理するシーンでは、手元を撮らないと何をしているのかわからない(焼いているのが鮭なのか生姜焼きなのかがわかりにくい)。そのためには俯瞰する必要があって、鏡を置かなかったか。

20230816

 地区の区民祭を開催した。私が入区してからは、コロナ禍で開催できていなかった。分館長として、「一度も見たことがない祭を開催する」という点では、それなりに成功したと思う(もちろん、各係のはたらきがあってこそである)。

 終わったあとに、ビールと焼酎のサーバーに余りがあったので、役員で飲んでいたが、私はひっくり返ってしまった。がたがた震えたので、軽い急性アルコール中毒だったかもしれない。まことにお恥ずかしい限り。

20230816

描き分けができないことを「ハンコ絵」と悪く言ったりするのだけど、源氏物語絵巻の引目鉤鼻をそうは呼ばないのはなぜだろうか。あれも当時は描き分けできてないと言われたんだろうか。登場人物が服装でしか区別できないぞ、とか。当時はハンコ文化じゃないからか。

20230814

 必要があって千葉聡『招かれた天敵』(みすず書房、2023)を読んだ。

 たった5頭のアフリカマイマイというカタツムリが持ち出された結果、太平洋の諸島に蔓延し、その駆除のために導入された肉食カタツムリ(ヤマヒタチオビ、キブツネジレガイ)が効果をあげず、かわりに各地の在来のカタツムリを次々と絶滅させ、アフリカマイマイ根絶のさらなる切り札として肉食陸生プラナリアのニューギニアヤリガタリクウズムシが(これも効果は疑わしいのに)非公式に移入され、こいつがあらゆるものの隙間に入って蔓延し、ちぎってもちぎれたところから再生して拡散し、人類が薬品・土木・電気による防壁を建設するもむなしく(最後の電気防壁はかなり効果を上げるが、台風によるたった3日の機能停止で破られてしまう)小笠原の父島の在来カタツムリを絶滅させてしまうところは、小川一水のSF小説にありそうな絶望感であった。

「侵入したウズムシは、たちまち増殖拡散し、鳥山半島全域を占拠した。半島内でカタマイマイ類が生息する地点は、半島の付け根から先へと順に塗りつぶされるように消えていった。2017年には、半島内で生きたカタマイマイ類は1頭も見つからなくなり、ついに絶滅したものと判断された。

 こうして父島のカタマイマイ類は、野生下にて絶滅した。」

――という書き方とか。わかりますかねこの感じ。『天冥の標』の、太陽系が発する赤外線量が下がった、みたいな「どうするんだよこれから」という感じです。こっちはSFじゃなくて現実の災難なのですが(しかも著者は対策の担当者で、失敗を体験している)。

20230810

 映画「モンタナの目撃者」(2021年)、アンジェリーナ・ジョリー演ずる主人公は森林局の森林消防隊員なので、林業映画といってよいでしょう。消すのは火じゃないけど。

 字幕で「とがった斧」みたいな書き方をしてたが、あれは丸太用のトビではないかと思う。

20230809

コロナ前の祭(AFC祭)から開催形態が変わるので、各店がどういう形のものを出すのか予測がつかない。だから図ではお茶をにごした。「ヨーロッパの広場に出てきている、おしゃれっぽいあれ」を何の資料も見ずに描いたら「山車」になった。「来てみなさい」の上伊那方言は「来(き)てみらし」じゃなくて「来(こ)らし」じゃないかと後から気づいたが、村観光協会もそのように表記しているのでいいことにした。配色の知恵がないので、目立つなら黄色と赤色だろうと塗ってみて、なんか不思議だなと感じたが、これは からしの配色ですね(だから「みらし」と頭の中で情報が衝突して読めなくなる)。マルシェといえば西田ひかる(古い)。ブーケガルニ。一応、「がけの下(コロナ)から祭が戻ってきた」という寓意があるのですよ。描いてる途中でパースがあわなくなって妙な感じになってますが。このポスターを見た人から、「これは屋台をイメージしてるんですよね?」と訊かれて、「いまのギャグはこういうふうな面白さを狙ったんですよね」と指摘されるような羞恥を感じた。

20230806

 なるほどと思うことがあった。

 大芝高原で、ちょっとしたウォーキングイベントをやった。私は一応、実施側である。その受付場所にいたら、近くを歩いていた(私たちの一団とは関係のない)人が転倒した。

 これは、と数名が駆けつけ、私は受付にあったイスを持っていって座らせた。片足に力が入らず、立てない状況である。脱臼など機械的な損傷か、熱中症など非機械的な損傷が考えられるだろう。さてどうするか。

 しばらくして落ち着くと、その人がご自身で家に電話をかけ、家族に来てもらうことになった(どうも機械的損傷である)。しかし、林内の歩道の「今いる場所」を口頭で伝えるのは難しいものだ。うまく伝わらない。聞けば、大芝までは車を運転して来たという。それならば、自分の車まで戻ればわかるかもしれない。「いつもの駐車場」で向かっている家族もわかるという。

 この人を移動させねばならない。どうやって。肩を貸すとかは距離的にみて非現実的である。そうだ、車いすものがあるではないか。大芝なら店内に常備されているかもしれない。

 はたして売店にそれはあった(南箕輪村、さすがである)。借りてきて、座ってもらい、駐車場まで移動させて、ややあって到着した家族に引き渡した。

 

 車いすを戻しにいく途中に、はて、自分はどうして「車いすを売店に探しに行こう」と思いつくまでに、これほどの時間を要したのだろう、と考えた。

 思いつくまでに要した状況の変化は次のようなものだ。

『立てない→ イスに座らせよう→ 家族をよぶ→ 歩道には車が入れない→ 車が来るところまでこの人を移動させねばならない→ 車いすが必要だ(探しに行かねば)』

 これは、どうして

『立てない→ 車いすが必要だ』

とはならなかったのだろうか。立てないのだから、遅かれ早かれ、この人を移動させる必要はでてきたはずだ。症状をみるのはその場にいた他の人にまかせ、自分は移動手段の確保にむかえばよかったのである。

 思うに、「この人はなぜ立てなくなっているのか」を思案したからではないか。情報があっても私には判断できないことなのに、それをしようとして時間を消費した。状況だけから必要なものを判断しなかったのである。

 

 帰宅して、背負っていたバッグをあけて、もう一つのことに気づいた。

 私はこの日、熱中症の人が出たときの一次処置のために、殴ると冷えるあれ(正式名称がわからない。化学反応で冷やすあれ)を何袋かバッグに入れていた。それを使わなかったことに、である。

 この人は熱中症ではないようだ、とわかったところで、これの存在は頭の中から消えていた。冷えるのだから、足にあてがうとかもできたはずだ。これを「冷える便利なもの」ではなく「熱中症の対処に使うもの」だという観念の固定が生じていたわけだ。

 

 この出来事のレポートでBEAは、緊急時においては状況の原因を究明することよりも、いま生じている状況に必要なものをまずは用意すること、それから備品が転用できないか検討すること、およびそのための訓練を勧告しました。この経験によって航空業界は重要な教訓を得、以前よりも安全が確保された状態になっています。(『メーデー!』のお決まりの締めくくり)

 『メーデー!』をみていると、なにかの事態が発生したときには「まずコーヒーを頼め」(事態から自分を離し、全体を俯瞰できる余裕をもて)という教訓が出てくるのだけど、こうした軽微な出来事でも、なるほどそうなのである。

 もし私がこれまでに、車いすや、殴って冷やすあれを使う訓練をしていたなら、対応はちがったかもしれない。実は、「担架を使うか?(しかしこの人数では持てないな……)」は早い段階で頭の中にあったのである。担架は消防団の積載車の中に入っているからだ。

20230806

箕輪の郵便局を大芝方面にちょっといった左側に、ブラジル式ハンバーガー屋があらわれた。店名は「インペーリオ・ダス・デリーシアス」(Império das Delícias)というらしい。「うまさの帝国」? ブラジル帝国(1822~89)と関係が……? あるいは店内にいた二人のどちらかが「美味さの皇帝」、つまり「味皇

20230806

 「明日は『ろくどうっぱら』に祖母を迎えにいく」と聞いた。老人ホームか何かかと一瞬思ったが、頭の中で漢字に変換して驚いた。「六道」とはただならぬ。

 写真の中央にみえる平地林が「六道原」で、遊ぶ場所ではないと子どものころから戒められていたという。現し世と隠り世の境なのである。ここから松の葉に乗せて先祖を家に連れ帰るのである。天竜川の西岸側の人々は、毎日あそこに異界の口があるのだと見ながら生活をしてきたんだろうか。

 この林はどうもアカマツである。これは樹幹注入して保存するのがよいと思う。