森林・環境共生学に関連しそうな本を読んで適当に紹介するコーナー
東大式 癒しの森のつくり方:森の恵みと暮らしをつなぐ
東京大学富士癒しの森研究所編
築地書館
2020

スモール イズ ビューティフル:人間中心の経済学
エルンスト フリードリッヒ シューマッハー
講談社(講談社学術文庫)
1986
 先日、伊那市長谷(旧 長谷村)で、トレイルカッター社の名取将さんの話を聞いた。11月に「伊那市ミドリナ委員会」がおこなうイベント「森JOY」があるのだけど、今年はWeb番組の方式になるので、そのための映像を作ることになったためだ(2021年は市有林の中で実施すると思うので、ぜひ手伝ってほしい)。
 名取さんは、上伊那地域の森林の中に、マウンテンバイク用の道を80kmも設けて、そこで持続可能な観光業をやっている。主に走るのは、むかし地域の人々が炭焼きや木材生産のために使った古道だ。自転車が走ることで林地を傷つけないように、丁寧に道の管理をなさっている。
 彼は、マウンテンバイクで森の中を走ることは、「ふつうの森林」でもできるレジャーだという。登山は高い山でおこなう。自然散策も、自然林でおこなうのが通常だろう。しかし日本の里山は、多くが戦後造林された人工林である。上伊那なら、アカマツやカラマツ林だ。こうした人工林は、特筆すべき美はないものとされている。ところが、自転車で走るのなら、それでもかまわない。人工林は、成熟して伐採生産するまでのあいだ、使い道がないと一般的には考えられているが、この方法なら十分楽しめるし、経済的価値もうむのである。
 この話を聞いて、私はなるほどと思った。我々の従来の「林業」感は、なんと狭かったことか。新しい森林との関係は、こうした地域の実践者の中から出てくるのだ。

 『癒しの森……』は、これと似た問題意識で書かれている。書いたのは東京大学の演習林組織の一つだ。
 この演習林は、山梨県の山中湖のほとりにある。山中湖は、大企業の保養所が建てられるなど、有名な観光地である。しかし、近年そこにかげりが見える。森林が美しくなくなってしまったのだ。以前は、地域の人々が、農業や生活のために盛んに森林を利用していた。そうした森林は、明るく開放的で、「癒し」の要素があった。だから保養所も建ったのである。ところが、観光業に重点が移ると、森林は自然の力で鬱蒼としてきて、倒木もみられるようになり、癒しというより「おそれ」の対象となってしまったのだ。
 では業者に間伐してもらえばいいのか。それもいいが、明るい森林を保つためには、恒常的にお金をかけなければならない。
 どうしてこうなってしまったのかというと、この本の表現を借りれば、森林が「プロ野球選手と観客しかいない世界」になってしまったからだ。フィールドで活動する林業の業者と、まったくフィールドに出ない市民。これではいけないという。少年野球や草野球があってこそ、プロも伸びる。
 では、森林で少年野球に相当する活動は何か。これが案外難しい。木材生産は、世界中どこの森林でもできる「一般解」だ。科学は宇宙のどこでも適用できる一般解を好むので、放っておくと木材生産ばかりになる。一方で、森林は多様なので、木材生産以外で何ができるかについては一般解が存在しない。「ローカルな解」しかないのである。これまでの科学には苦手な部分だ。
 この本では、ローカルな解を、大学演習林が学生とあれこれ挑戦して探してみた様子が書かれている。この内容をそのまま上伊那に持ってくることは多分できない(あちらは観光地だ)。真似できるとしたら、大学演習林と学生が新しい森林利用のローカルな解を見つけ出す先頭に立つ、ということだろう。

 この考え方の参考になりそうなのが、シューマッハーだ。彼は「中間技術」(あるいは適正技術)という概念を考えた。
 私たちのイメージする「進んだ」科学技術は、大量生産のための技術だ。しかしシューマッハーは、本当にそうか? と問う。大量生産のための技術は、エネルギーを大量に消費するし、環境への負荷も大きい。たとえば、そうした技術を発展途上国に持ち込んでも、人々は豊かになれない。機械を管理するのは一握りの人間で、他の人はせいぜい、機械に奉仕する人になるだけだ。
 シューマッハーは、人々を豊かにする技術というのは、そういうものではないと言う。大切なのは、大量生産のための技術ではなくて、大衆が生産できる技術だ。この、①安くて誰でも手に入れられ(自分たちで修理でき)、②小さな規模で応用でき、③人間の創造力を発揮させるような技術を、「中間技術」とよんで提唱したのである。大衆による生産を可能にする技術なら、小規模分散型になり、環境負荷も抑えられる。
 しかし、放っておくと中間技術は消滅してしまう。農業でいえば、大穀倉地帯で使うような巨大なコンバインと、原始的な鎌は残るが、中小規模の農家が使える農機具は滅んでいく。そうすると人々は農業を続けることができなくなる。プロ野球選手と観客の話と似ている。
 だから、中間技術を開発して、失われてしまうのを防ごう、というのである。そこに優れた技術者の力が要ると。「技術に簡素さを取り戻すことは、複雑にするよりも難しい。複雑にすることなら、三流の技術者や研究者でもできる。しかし、簡単にするには、ある種のヒラメキがいる」。
 薪など、木質バイオマス燃料も、中間技術の一つである。原子力発電のように中央集権的・秘密主義的な技術ではない。誰にでも運用できる、ひらかれた、実に民主的な技術である。しかし、最近の薪ストーブは、原始的なたき火とも違う。ストーブ内の気流が計算されていて、燃焼効率が極めて高く、ススも出ない。薪ボイラーは欧米で普及しているが、そこで重要になるのは蓄熱タンクの温度管理である(うまく蓄熱できれば、ボイラーは小さくてよい)。ここにはシミュレーション技術が応用されている。
 この中間技術を支えるのは、地域の森林である。中間技術と、地域の新しい森林利用とは、関連づけられるような気がする。
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© 2020 三木敦朗