森林・環境共生学に関連しそうな本を読んで適当に紹介するコーナー
けものが街にやってくる:人口減少社会と野生動物がもたらす災害リスク
羽澄俊裕
地人書館
2020

けものたちは故郷をめざす
安部公房
岩波書店(岩波文庫)
2020
 『街にやってくる』の著者は、ながく野生動物の保護管理に携わってきた人物だ。
 増えすぎたニホンジカやイノシシ、ツキノワグマは、農林業に被害をもたらすだけでなく、今や都市部にも出没している。市街地には緑地があるし、追い回す敵はいない。ヒトの捨てたゴミは栄養もあり、空き家で風雨をしのぐこともできる。するとそこに適応して繁殖するものもでてくる。市街地では猟銃や猟犬が使えないから、対策コストは高くつく。交通網にも影響がでるし、家畜・ペットやヒトへの共通感染症の拡大も重大な問題である。
 だから、侵入したものをそのつど駆除するというのではだめで、街に入り込まないようにせねばならない。これは農山村でも同じで、いまの鳥獣害対策は、本来は趣味の人の集まりである猟友会にほとんど依存していて、しかも高齢化している。これからも大量に捕獲してもらい続けるのは難しいだろう。野生動物との「棲み分け」をはかる必要があるのだ。
 かつては、人々が山林や農地を生活のためにさかんに利用し、獣も獲って肉や皮を得ていた。それを通じて、野生動物との間にバリアゾーンやバッファゾーンが形成されていた。ところが、今では機能しなくなってきている。これを解決するためには、有害鳥獣駆除とかの個々の対策だけではなくて、国土の使い方そのものを改めねばならない、というのが著者の主張だ。
 棲み分けをはかるためには、農山村に山林や農地を利用する生業(なりわい)があって、人々が暮らしていることが不可欠である。ところが、実際には農山村での産業は維持されず、生活できなくなって人々は都市へと流出している。それが「効率的」なことだとされてきたわけだ。しかしその効率化によって、いま都市部でもやっかいな鳥獣害が生じてしまっている。
 棲み分けを実現するためには専門家が必要だというのも、著者の主張といえるだろう。たとえば、イノシシやクマは、河川やその周辺の樹林帯をつたって都市部に来てしまう。生物多様性の保全のためには緑地の連続性が求められるが、鳥獣害対策のためには分断せねばならない。では、どの程度切り離せばいいのだろうか。この知見はまだないのである。また、山にどんな樹種を植えるかも、獣害対策の立場からはエサにならない針葉樹が望ましいが、別の立場からはそうでもないだろう。この意見の調整をおこなうためにも、専門家が必要だ。
 だが、大学では短期間のうちに華々しい成果をあげることが求められ、地道なフィールド研究が行われにくくなっている。生物の生息状況を調べる(モニタリング)ことは、小中高の先生やNPOなど地域のナチュラリストに支えられてきたが、高齢化しているらしい(若い人々に余裕がなくなっているということだろう)。著者はこれに危惧をしめしている。その一方で、鳥獣害対策はますます重要になるだろうから、そうした事業をする会社を興したり、モニタリングをする専門家になることを若い世代に呼びかけている。
 林業先進国であるドイツやオーストリアでは、森林の専門家は、野生動物対策の教育もうけている(猟場の管理をしていた狩猟官が、森林官に発達したという歴史的経緯もある)。林業と野生動物管理を、ばらばらにとらえていてはいけないということらしい。林業のためには野生動物管理が必要だし、その逆もまた真なのである。

 似た題名の『故郷をめざす』も、最近読んだので紹介しておこう。
 舞台は1948年。「満洲」で生まれ育ち、家族を失った19歳の主人公・久三が、「日本」に向けて逃避行するという物語である。安部自身も「満洲」で育った。
 久三の両親は、パルプ工場で働くために静岡から渡満している(林業!)。久三は「日本」というものを本や話でしか知らない。しかし行くところはそこしかない。日本を見たことがない日本人である久三は、日本から来た日本人に戦後の姿をたずねる。
「日本、どんな具合ですか?〔……〕桜の木も、焼けたんでしょうね。」
「桜? ……桜なんて、おめえ、どうってこともないじゃねえか。」
「ぼくはまだ、見たことがないんですよ。」
 久三と一緒に凍える荒野をさまようことになる相棒も、母が日本(そのまた父は朝鮮)出身という、複雑な家系の中国人である。しかし当時の東アジアではそれほど珍しい存在ではなかっただろう。殖民地支配と敗戦によってアイデンティティーが動揺せざるを得なかった人々は、日本の旧支配地域でかなりの数にのぼったはずだが、多くの「日本人」には意識されない。
 そして物語のおわり、久三たちは、ようやく「日本」へと渡る手段を得るのだが、決定的なところで拒絶されるのである。もしかしたら、安部自身が引き揚げ後に体験した感覚をあらわしているのかもしれない。
 日本人は、海で隔てられた空間に住んでいるので、国の境界や、国民というものは、おのずと決まるものだとなんとなく思っている。しかし本当はそうではない。久三のような存在を切り捨てることで、意図的に単純化して考えているだけなのである。これからの環境「共生」学は、これを直視せざるをえないだろう。
 ところで、「AはBをめざす」という題名は他の文学作品にもあるので、どれが先かとTwitterに書いたら、国語の先生(会ったことはない)が安部の本作が最初だと教えてくれた。他に有名どころでは五木寛之の『青年は荒野を目指す』がある。
 NHKのオリンピック関連番組に「世界はTokyoをめざす」というのがあるらしいのだけど、「めざす」とひらがな表記になっているから、五木ではなく安部のオマージュである。安部の本作はバッドエンドなのだけど、いいのだろうか……?
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© 2020 三木敦朗