森林・環境共生学に関連しそうな本を読んで適当に紹介するコーナー
ぼくは縄文大工:石斧でつくる丸木舟と小屋
雨宮国広
平凡社(平凡社新書)
2020

戦国時代は何を残したか:民衆の平和 神仏への思い 自然開発
笹本正治
信濃毎日新聞社
2020
 3万年ほど前、日本列島にやってきた人々は、3つのルートをたどった。一つはサハリンから北海道へ。もう一つは、朝鮮半島から対馬に。これらは海面が下がった寒冷期には、陸続きだったところもあるし、海峡の幅も比較的狭い。
 問題は、台湾から与那国島へのルートである。島に人々が定着するためには、たまたま漂流したというのではいけない。計画的な移住があった。ここは海面がどれだけ下がっても、間には広い海があり、黒潮も強い。相当な外海航海術がなければ渡れないのである(海部陽介『日本人はどこから来たのか?』文藝春秋〔文春文庫〕、2019年)。
 どうやって渡ったのか。草や竹で作った船では、スピードが上がらないので黒潮に流されてしまう。丸木舟だったのではないか。国立科学博物館が、クラウドファンディングに支えられながらおこなった実験(2019年)では、みごと渡りきった。
 『縄文大工』の著者は、その丸木舟を石斧で製作した大工である。
 当時の道具を復元して、実際にどのくらいの時間がかかるのかなどを確かめるのを、実験考古学という。作ってみないとわからないことは意外とあるようだ。
 たとえば、博物館の縄文時代の復元住居は、きれいに切りそろえられた茅葺きで建っていることがある。茅野市出身の建築家・藤森照信も書いているが(『フジモリ式建築入門』筑摩書房〔ちくまプリマー新書〕、2011年)、実験してみると不可能であることがわかる。縄文時代には金属のハサミや鎌がないので、ススキなどの茎をカットして見た目を整えることができないのである。屋根はもっとぼさぼさだったはずだ(また、屋根に土が盛られていた)。
 本書の著者は、大工としてさらに考察する。ハサミがないのだから、茅の根元を上にした逆葺きだったのではないか。現在の葺き方(真葺き)より耐久性は劣るが、何年かに一度、屋根を葺き替えるのは、技術伝承にはちょうどよいはずだ。
 また、柱などの木材は、縄で縛って組み立てられていたように思われているが、当時は稲作をしていないので、縄はカラムシなどから採らねばならない。その方法で縄をなうと、建築に必要なだけの長さを準備するのは著しく大変なことがわかる。だから当時から木に穴(ほぞ)をあけて組み立てる木組み工法を用いていたはずだと考える。当時の道具でも、ほぞ加工は可能だからだ。
 立木を伐採するところも興味深い。石器と鉄器では、効率は1:5だそうだ。石器とチェンソーでは1:90。もちろん新しい道具のほうが効率はよいのだが、その程度だということもできる。数人でかかれば、わずかな日数で必要な木を用意することもできただろう。ただ、ノコギリがない時代に、著者のように(131ページ)受け口・追い口をいれる現代式の方法で伐採していたかは、ちょっと疑問である。ビーバーみたいに木の途中を細らせて倒すか、伊勢神宮のために木曽ヒノキを倒すときの「三つ紐伐り」みたいな方法を使っていたのではないだろうか。
 著者は、黒曜石のナイフを使って獣を解体して驚く。金属器と違って、獣脂で切れ味が鈍らない。小さなかけらで用をなし、ガラス質だから錆びもしない。信州の黒曜石は、はるか北海道でも出土するが、たしかにこれは抗いがたい魅力だ。
 現代の我々は、石器時代の人々を原始的だとなんとなく思っている。しかし彼らのほうが自然素材をよく理解していたはずだし、体術も優れていた。冬はスキー板をはいて狩りをしていただろう、という推測もあるくらいだ(松木武彦『進化考古学の大冒険』新潮社〔新潮選書〕、2009年)。私たちの「常識」の狭さを自覚する必要があるのかもしれない。

 2冊目の著者は長野県立歴史館の館長である。その前は信大の副学長もしていた(人文学部の卒業生でもある)。
 武田信玄の研究で知られる著者は、人々の戦国時代の見方、とくに戦国大名を英雄視するのに疑問を呈している。なぜ人々は、血なまぐさいはずの戦国時代の話が好きなのだろう。それは戦国武将、しかもたいていは勝った側ばかり見ているからだ。武将が戦わざるをえなかった理由や、戦乱にさらされた民衆のことは無視されているのである。武将にばかり注目するこの傾向は、太平洋戦争のときに被害を被った民間人への補償・賠償に冷淡な姿勢に通ずると著者は指摘する。
 著者はまず、乱世の中で「モノ」同然に扱われた民衆のことを書く。中世の荘園領主は、比較的狭い範囲を管理していればよかったが、戦国大名はより広い地域を治めることになった。すると、自らの領地の統治をおこなうために、誘拐や人身(奴隷)売買などを禁じる必要がでてくる。しかし、領地の外の民衆に対しては別の態度で臨んだ。
 正直、ここは読んでいてつらい。とくに女性のおかれた状況は、いくら倫理観が現在とは違うといっても、まことにひどいものがある。戦国時代に記録を残せたのは一部の人々だけであり、女性や子どもは記録を残せなかった。だが記録がないからといって、存在しなかったわけではない。歴史の中で、民衆がどう暮らしたのかを調べることの重要性がわかる。
 ところで、民衆もなされるがままではない。戦に巻き込まれないようにするために、情勢があやしくなってくると山小屋に逃げ込んだ。一揆もおこした。このようにまとまって対抗するために、住民の自治がうまれる。寺院も、特別な空間として人々をかくまった。そしてこれらは、全国統一をしようとする織田信長に破壊されたわけである。
 もっとも、戦国大名たちは戦ばかりしていたわけではない。領地の安定的経営のために、農地の開発や河川の改修をおこなう。また、山には山城を建設した。戦国時代は大開発の時代でもあったのだ。
 それまで、山や川は神仏の空間であった。そこに手をつけることはおそれられてきたし、開発する場合は、神仏(自然)と人間社会の中間に位置すると考えられていた技能集団に委ねられた。だからこれらの集団は神聖なものでもあった。しかし戦国時代になると、そうではなくなってくる。他の人々も開発行為をするようになり、技能集団は聖なる存在から、差別の対象へと変化してしまったのである。
 私たちの関心から見れば、自然を本格的に開発するようになった時代として、戦国時代を理解するところに、本書の面白さがあるといえるだろう。
 ところで著者は、戦国時代に比べて、いまの人類が本当に進歩したのかと最後に問うている。戦国時代の民衆には、逃げ込む場所があった。しかしいまの時代はどうか。兵器の能力は格段に向上し、そして我々に逃げ場はない。
 だが私は、その点での希望はあると思っている。核兵器の開発と使用を禁止する核兵器禁止条約(10月24日に50か国目が批准、2021年1月に発効)もできて、民衆を巻き込む兵器や戦争を違法化しようとする努力がなされているからである。もっともこの歴史的な条約、唯一の被爆国は未だ批准していないのだけど……。
 なお、戦国時代に活発化した新田開発だが、森林にむかって開発していくのだから、問題もでてくる。このあたりは、 水本邦彦『村 百姓たちの近世』(岩波書店〔岩波文庫〕、2015年)や武井弘一『江戸日本の転換点:水田の激増は何をもたらしたか』(NHK出版〔NHKブックス〕、2015年)などがある。
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© 2020 三木敦朗