焼畑は環境を破壊するものではない、と研究者が訴えて、すでに数十年になる。しかし巷では、ある場所で短期的利益をあげるだけあげたあと別のところへ移るようなビジネスを「焼畑」と表現するなど、誤解が多い。身近に焼畑が見られなくなり、イメージをつかみづらくなったのも一因だろう。
焼畑は、日本でも各地の山村でおこなわれていた。信州では
栄村の秋山郷が有名である。また、いま焼畑を始めた人たちもいる。この本は、実際に焼畑をおこなっている人や、いっしょに取り組む研究者が、それぞれの立場から書いたものだ。
焼畑は、施肥もせず、あまり耕さず、除草回数も少ない(雑草種子を焼くために火をつけているのだから当然だが)こともあって、他の農業に比べても原始的・粗放的な技術だとみられがちである。しかしそうではない。天候を読み、類焼を防ぎながら火を入れ、均等に地面を焼くのは誰でもできるものではない。たとえば、深く耕すと生き残った雑草の埋土種子が、表に出てきてしまう。理由があって深く耕さないのである。地域のバリエーションもゆたかだ。場所によっては、林に焼畑をつくるのではなく、ススキ原でつくる。これは女性の仕事であった(177ページ)。
現代に焼畑をおこなうというのは、昔を懐かしむだけの行為なのだろうか。そうではないと言う。たとえば、立木の収穫(主伐)後に焼畑で収益をあげられれば、再造林の費用が補えるかもしれない。林地に枝条が残らないから地拵えや下刈りも楽になるはずだ(85ページ)。焼畑は移動を繰り返すので、広大な土地が必要である。人口密度が上がる時代には難しいが、いまの山村にはむしろ合っているのではないだろうか? 農作業が労働集約的・機械集約的でないのも、これからの日本に合っているのかもしれない(140ページ)。
私たちは、技術はどこでも通用するものを良いものとし、機械やハイテクノロジーを動員して省力化するのが近代的であると考えがちである。しかし、場所ごとに異なる地域の自然の姿、生活の仕方にあわせた農林業技術こそが、本当の意味で高度な技術なのではないだろうか。
また、農林業は生産のため、収入を得るための行為だと認識しがちだ。だから多く収入が得られるものに特化すればいいと思う。しかし斜面を燃やすのは自然との勝負でもある。うまくできれば達成感がある。みんなでやるから団結感をうむ。収穫に加えて、そういう楽しみも、生活を支える不可欠の要素なのである。