森林・環境共生学に関連しそうな本を読んで適当に紹介するコーナー
都市で進化する生物たち:“ダーウィン”が街にやってくる
メノ スヒルトハウゼン
草思社
2020
 都市の生物多様性は低いと思われがちだが、土地を単調に加工し、農薬を撒いている大規模農業よりは多様だそうである。都市は、荒涼としたコンクリートの砂漠ではなく、実際には様々な生物が住みついている。そこには都市環境への適応が必要だ。わずかな土に生える植物は種子を遠くに飛ばないようにし、ビルの壁面を上るトカゲは肉球を大きく、鳥は車にひかれないように翼を短く(小回りがきくように)する。
 それだけではない。それまでもっていた体内時計をかえ、人間が起きて車を走らせる前の、静かな時間に鳴くようにし、低周波の騒音に負けないように声の周波数を高くする。人間が次から次へと出してくる珍奇なものを利用するために好奇心を高め(見慣れるものに寛容になり)、人間が垂れ流す汚染物質に対抗できる仕組みを新しく体内に備える。
 こうしたことは学習の結果なのか、それとも進化なのか、進化とまではいえない適応なのか。研究者たちは検証方法を工夫して明らかにする。いずれの変化も存在するようだが、中には明らかに進化だといえるものもある。性選択が変化して、もとの種から分化しつつあるものもあるのだ。
 都市で獲得した遺伝的な特徴は、その集団がすぐに絶えてしまうような小規模のものではいけないが、かといって都市の外部の集団との交流が盛んな環境下ではすぐに薄まってしまう。都市は、道路による分断や細切れの緑地などで、ほどよく隔離されている環境なのである。だから進化のスピードも速いという。研究者が観察している前で、生物は姿を変えていく。都市はさながら、ガラパゴス諸島の島々のような進化の実験場なのである。
 スヒルトハウゼンは、このように都市の生態系の独特さに目を向けさせる。だからといって、天然自然がなくてよいと言っているわけではない。生物たちの都市での「発明」は、都市ごとに独立してなされている。新しい生き物が都市から都市へと伝播しているわけではなく、それぞれの都市で独自の進化をしているのだ。その都市へとチャレンジする集団の供給源は、周辺の田舎にいる集団である(もちろん外来種もいる)。天然自然の生態系と都市の生態系、両方の保全が必要だと言っているのである。生物は新しいニッチへのチャレンジをしつづける。それが生物の本質であるなら、都市にも観察すべき自然はあるというわけだ。
 この本の面白さは、都市の、実際に観測できる進化の事例を用いて、進化学の様々なキーワードを知ることができるところにある。進化というと、途方もない時間・世代をかけてすすむものだというイメージがあるが、わずかな期間に観察できるかもしれないのだ。これがこの本の何よりの驚きだろう。
 ただし、都市環境に挑み、そこで進化ができる生物は、もともとそういう環境に適応する可能性(前適応)をもっている種である。カラスは巧みに生きていくが、都市の中でライオンが進化することはできない。また、都市環境や人間の習性をうまく活用する生物が、人間にとってよい結果をもたらすとも限らない。
 たとえば、忌々しい新型コロナウィルスは、同時に、グローバル都市の人間の習性をうまくハッキングしたともいえる(ウィルスは生物ではないが)。都市人が、毎日多くの知らない人とすれ違うことを利用している。必ずしも重篤化しないことによって、「自分は大丈夫だろう」というヒトの認識のゆがみ(正常性バイアス)を利用する。それは「罹患したのはその人のおこないが悪いせいだ」という自己責任論の中では、とりわけうまく機能する。初代「ゴジラ」の山根博士ではないが、新型コロナが征圧されても、ヒトが大都市へ集住し続けるとしたら、あのウィルスの同類が、また世界のどこかへ現れてくるかもしれない。
 スヒルトハウゼンは、都市も生物を進化させることを説くが、それが人間にとってどのようなものになるかは問わない。これは予定調和論的ではないだろうか。都市は、生物と人類にとって共生可能な場所になりえるのだろうか?

 ところでこの本には、ヒトが運転する自動車を利用してクルミを割るカラスの話がでてくる。この行動は仙台市あたりで観察され始めたものらしい。スヒルトハウゼンは、この行動を見にわざわざ来日しているので、彼の国(オランダ)では見られないのだろう。さすが自動車大国・日本というところか。
 農学部周辺のカラスも、以前はこうした習性をもたなかったのだそうだが、現在では立派にヒトを利用している。
 あるとき、私は諏訪から伊那へぬける道路を自動車で走っていた。道路に何かが置いてあった。何かな? と思って、つい踏んでしまった(自動車は、見た方向へ進むのである)。あわててバックミラーで確認すると、カラスが出てきてクルミの実を取り出している。そのとき、私はカラスという動物の「道具」になったのだと感じたのである。人間が生物の中でいちばん偉いのでも、知恵をもっているわけでもない。カラスの側から見れば、利用される存在なのだ。
 人間が他の動物に比べて賢いように見えるのは、「人間が高い点数がとれるテストを、他の動物に課しているから」にすぎない。このあたりのことは、ジェニファー アッカーマン『鳥!:驚異の知能 道具をつくり、心を読み、確率を理解する』(講談社〔講談社ブルーバックス〕、2018年)などに詳しい。
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© 2020 三木敦朗