森林・環境共生学に関連しそうな本を読んで適当に紹介するコーナー
〈正義〉の生物学:トキやパンダを絶滅から守るべきか
山田俊弘
講談社
2020
森林・環境共生学コースにいる人は、「生物多様性を保全することは必要か」と問われれば、「必要だ」と答えるだろう。では「それはなぜか」と問われればどうか。「そういうものだ」と答える人もいれば、「生物多様性は人の生活(生存)を支えているから」と答える人もいるだろう。しかし、生物の中には、人類にほとんど関係のないものもいるし、中には害をなすものもいる。ではそれらは滅ぼしてもよいのか。それがダメだとするなら、いかなる理由によってか。
まあ、我々は「保全するものだ」ということにしておいて、研究や保全の取り組みをしてもいいだろう。しかし世の中には、「なぜか」を突き詰めて考える役目の人たちがいる。環境倫理学である。
この本は、著者の講義を再現するかたちになっている。
前半は、生物多様性とはどういうものかについて説明している。「第6の大量絶滅期」といわれる危機のことなどだ。これに続いて著者は問う。「進化の過程で絶滅することはありうる。弱肉強食は自然の摂理なのだから、ヒトとの生存競争に敗れた生物が絶滅することは仕方がない」と言えるか。
もちろん誤りだ。著者は、これがダーウィンの進化論の誤った解釈であり、この誤りが人間社会に適用されると「社会ダーウィニズム」という危険な考えになることを指摘する。ここで社会ダーウィニズムについて言及している点が重要だと思う。資本主義社会では経済競争があり、生物学を粗雑にあてはめて、「経済競争に適さない人は死んで当然」というような考えがはびこりやすい。このあいだも、医師が違法に難病患者を「安楽死」させたことがニュースになったが、それにたいして少なからぬ人が「合法化すべき」だと考えた。これはきわめて危険な徴候だ。環境倫理学の本で、社会ダーウィニズムが明確に否定しておくことは意味がある。
さて、では人間の行為によっての絶滅がダメだとして、それはなぜか。私たちが納得しやすいのは、「生物多様性は人の生活を支えるから」というものだ。これを人間中心主義という。たとえば、カビから発見されたペニシリンのように、熱帯雨林の植物から、もしかすると難病の特効薬が発見されるかもしれない。
これは一理あるが、一方で「役に立たない、あるいは害のある生物はどうなるのか」ということが疑問になる。「パンダは役に立たないが、かわいいからいい」とかだと、生殺与奪を人間の主観的な判断で決めてしまうことになるので危うい。
この考えには、歴史的にも批判が加えられた。人間中心主義とは異なる理由が考えられている。一つは、生態系中心主義である。この考えは、生態系のバランスを重視する。たしかに、バランスがとれていれば我々の生活も安定するだろう。しかし論理的な欠点もある。山のシカが増えすぎてバランスが崩れたら、捕獲するだろう。ところが同じ理由で、増えすぎているから人間を間引く、ということも許されてしまう(論理的に、それはダメだと否定できない)。アニメとかによくいる悪役の考え、「環境ファシズム」に陥る可能性があるわけだ。
もう一つ、生命は生命として尊いから(権利をもつから)、という理由も考えうる。生命中心主義だ。ところが、人間だって生きるために他の生物の命を奪って食べなければならない。どうするか。たとえば、「意識のある生物の命をとってはいけない」というふうにして問題を回避する。「痛みを感じる生物」で線を引く場合もある。でもそれだと、生物の意識や痛覚のある/なしをどうやって区別するのかが難題になる。
ここまでの議論は、実は他の教科書にも書いてある。この本が独特なのは、これに加えて「正義」で理由づけする考え方を紹介しているところだ。これは、「他者や、他の生物を軽視しないという、正義に基づいて行動するべきだ」というものである。なるほどそう言えなくもないだろう。ところがこの正義論は、「そういう正義をもつ生物が、進化の過程で生存に有利だったので生き残ってきたのだ」という「生物学」的な説明をともなっている。こうなると「?」と思わざるをえない。当然、著者も問題点があることを指摘している。
著者は、こうした検討をおこなったあと、少しだけ自分の論を展開している。他の生物の命をうばうことは避けられない。しかし、生存に不可欠な殺生と、それ以外の殺生とは区別できる。後者はダメだ――というものだ。
ただ、「生存圏」みたいなものを掲げてナチスが戦争をしたことを考えると(日本も「満蒙は日本の生命線」とか主張した)、自分の生存なんて理由はどうとでも表現できてしまう。著者も、論理的に問題があることは自覚している。著者が言いたいのは、過去の人々が考えてきた議論を知り、考えることで学ぶことの大切さだ。議論の題材にしたり、論理的な思考の訓練のために役に立つ本だと思う。
ところで、生態系中心主義を「自然倫理」というかたちで最初に提唱した人は、アルド レオポルドである。この人は生態学者で、森林官でもあった。レオポルドの『野生のうたが聞こえる』(講談社〔講談社学術文庫〕、1997年)も読みやすい。
© 2020 三木敦朗