森林・環境共生学に関連しそうな本を読んで適当に紹介するコーナー
戦争が巨木を伐った:太平洋戦争と供木運動・木造船
瀬田勝哉
平凡社(平凡社選書)
2021
 日本史上で空前の森林破壊期だったのは、太平洋戦争と、その復興期である。詳しい面積はわからないものの、日本列島の森林の1割以上が失われた状態で戦後はスタートした。今の日本の森林問題の一つの原因は、この戦争にあるといってもよい。
 どういうところを伐採したのだろうか。その一端を明らかにしたのが本書である。日本史の研究者が書いた本だが、もとは学生の卒論だったというから驚く。素人が近寄りにくい研究書とは異なり、誰にでも読めるように書かれているのも特徴だ。

 「太平洋」戦争というように、この戦争には船がたくさん必要だった。外洋を航行できる鉄の船を確保するために(軍艦だけでなく、石油などの運搬船も必要である)、沿岸部の輸送は木造船にあたらせることにした。木材を集めねば。当初は国有林などから生産していたが、足りない。そこで戦争末期には、庭の木、風を防ぐ屋敷林、並木、ご神木までが目をつけられた。この本が調べたのは、こうした平地(非森林)の大木のゆくえである。それは人々にもっとも身近な木々であった。
 政府は、森林は法律をつくって強制伐採させたが、平地の木にたいしては人々の「協力」で伐採して購入するものとした(供木)。強制伐採すると反感をかうからである。
 ただ、実質は強制的であった。
 造船にむくような大木は、当然樹齢も数百年あり、人々の思い入れも強い。先祖伝来であり、地域の故事と結びつくものであり、伐ればタタリがあるとされてきた木であった。スムーズに伐採に「協力」したわけではない。村の壮年団(大日本翼賛壮年団)が戸別訪問して大木調査をすることで伐らざるをえなくしたし、「先祖も戦争に勝つことを望んでいる」とか「人が兵隊にいっているのに、木がいかないでどうする」というストーリーで納得させたりした。高村光太郎が供木の詩を書き、新聞に載せてムードを作り出すこともしている。
 それでも生産目標の達成は難しかったらしい。割り当てた量の半分以下しか集まらない。だから供木運動の期間を延ばすのだが、それも「国民が継続を望んでいるので」という理由で広報された。抜け目ないのは流通業者で、「そのうち政府は強制伐採に踏みきるだろうから、伐って売るならいまのうちですよ」と買いたたいたりしている。

 集められた木はどうなったか。
 おかしなことに、造船所側には不評だったらしい。船は曲線でできているので、よい具合に曲がった木がほしい。ところが供木する側はそれを知らないので、曲がったところを捨ててしまったりする。直線的な船になる。水の中での抵抗が増す。速度は遅くなり、よけいに燃料を食った。
 そもそも、船をつくる能力も失われていた。造船所に集められた人は未熟練で、大半が呉服屋さんという造船所まであった。釘も足りない。船の外見にまで仕上げても、載せるエンジンがなかった。
 船会社は、造りの粗い新造船よりも、きちんと造られた古い船を手直しするほうを好んだので、せっかく造った船が利用されない。こんな船では長持ちしないということは明らかだったが、政府は「短期消耗品」だと開き直った。敵の飛行機や潜水艦にどんどん沈められるのだから、寿命を長くしても意味がないというのだ。木を集めるときは、木造船を撃っても弾丸の無駄だから敵も撃たない、などという理由付けをしたのにである。
 船にならなかった木は、闇で横流しされたり、戦後に他の目的に流用されたりしたようだ。皮肉なことに、終戦直後には船がものすごく不足していたので、「短期消耗品」ながら補修されて使い続けられ、平均的な寿命をまっとうした船もあったという。

 ところで、大木の伐採に反対した人はいたのだろうか。
 各地には反対の記録がある。この木を伐るなら自分を切ってからにしてくれと抵抗した女性がいた。日光街道の杉並木も伐られようとしたが、これは地元の壮年団が反対している。古木はうろが多いから造船には向かない、と主張したのである。箱根の杉並木は、僧侶が書類を燃やしてしまって、その足で従軍して地域外に出、うやむやにすることで守られた。家族は肩身の狭い思いをしたという。もちろん、有力者の家の木は伐られないとかいうこともあって、美談ばかりではない。
 一方で、学者や著名人は反対しなかった。著名な造園学者がいくらか惜しむ文章をあらわしたが、反対はしていない。

 著者はそれぞれの内容について、いいとか悪いとかの判断をあまりしていない。事実を記述することにつとめている。歴史学者らしく、裏付けのとれない記録については採用しないなど、「何が事実か」を重視している。
 というのは、どんどん記録・記憶が失われているからである。むらや家の木を伐る決断をした人や、その木で造船をした人はすでに亡く、それを目撃した人も急速に減っている。
 これは戦時期だけに限らない。たとえば、私たちが目にする戦後造林された森林は、誰が植えたのだろうか(その苗は誰が育てたのだろうか。その前に生えていた天然林は誰が伐ったのだろうか)。その経験も史料として残されていない。都市部では、ニュータウン開発でどこが谷を埋めた場所なのかについての情報すらあやしい。現代なら書類や映像がたくさん残っているだろうというのは思い込みなのだ。
 そうした資料収集や聞き書きを、急いでやる必要がある。この本は、その例をみせてくれているのである。

 なお、この本で用いられた史料の一部は、大日本山林会 林業文献センターに所蔵されているものである。
 大日本山林会は、いかめしい名前だが、森林所有者などからなる歴史の長い団体だ。『山林』という月刊誌を、140年間やすむことなく出している。この雑誌は一般の人むけに記事が書かれているし、森林所有者が「私はこういう努力をして森林を管理している」ということを自分の言葉で書いている。農学部図書館にあるので、たまにながめるとよいだろう。バックナンバーはインターネットで公開されている
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