森林・環境共生学に関連しそうな本を読んで適当に紹介するコーナー
森のつくられかた:移りゆく人間と自然のハイブリッド
生方史数編
共立出版(森林科学シリーズ)
2021
 共立出版の「森林科学シリーズ」の第2巻。このシリーズ(全13巻)は、教科書ではなくて、森林の土壌や生態系、災害、文化など、様々な視点から現在の課題を論じたものである。
 今回の巻で着目されているのは、なにが「森林」かは人によって異なる、ということである。多くの人は、森林を破壊しようとは考えない。まもろうと考える。でも、「人によって異なる」ということを知らないと、森林をまもろうとすることが、かえって人々と森林との関係を壊してしまうことにつながりかねないのだ。

 地球上の多くの森林は、日本の「里山」のように、そこに住む人々が利用して形づくってきたものだ。我々が原生林とみなしているものも、そこに住む人々をいないことにして「原生林」だと思っている場合が多い。副題にあるように、森林とは「人間と自然のハイブリッド」な存在だ。
 だから、なにを森林とするかは、各地で異なる。
 国連の統計上は、森林は樹高や被覆率といった指標で定義される。日本の行政上では、森林とは森林法の適用をうける土地だ。だから伐採跡地は森林で、果樹園(農地)は森林ではない。
 日本に住む人の感覚では、美しく育てられたスギやヒノキの人工林は、もちろん森林だろう。しかし東南アジアのアブラヤシの栽培地(プランテーション)を森林というのは、なんだか迷う。逆に、プランテーションは森林ではないと感じる東南アジアの人々からすれば、日本のスギ人工林も森林ではないことになる。
 また、各々の土地の人々の森林観も、必ずしも一定ではない。
 日本で「里山」といえば、広葉樹林で炭焼きをしたりシイタケの原木にしたりする姿が連想される。しかし、商業的な製炭は近代になってから盛んになったものだし、それが低調になったからシイタケ生産に転換したのだ(現在のシイタケ生産技術は戦後に開発された)。それ以前は草原も多かった。なにが森林かは、時代によっても変わりうるのである。

 近代に、我々が学ぶ森林・環境共生学の原型である「林学」がうまれ、各国で科学的森林管理がはじまった。そこでは、森林の所有者を決めて、境界線を確定し、森林を育てることが目指された。林学を学んだ人々にとっては、森林の中を移動して焼畑をおこなうといった利用方法は、不合理なことだった。森林を国家にとって役に立つものにするという視点だったからだ。また、日本は稲作中心の国である、という視点からは、焼畑は遅れた貧しいものだとされた。
 現代でも、これは続いた。日本向けの木材生産のために、焼畑や狩猟をおこなっていた先住民を追い出して熱帯林を伐採する。あるいは豊かにするという名目で定住農業をさせる。森林の伐採後にはアブラヤシのプランテーションをつくる。森林を、人を除いた「樹木が生えた土地」として見ていると、この問題点に気づけない。

 もちろん、問題の解決のための国際的な仕組みも考えられている。たとえば、先住民をおびやかしていないかチェックする「森林認証」、地元住民の森林保全に先進国が投資する「REDD+」(投資すれば先進国側も得になる)などである。
 しかし、そうした仕組みは、誰が設けたものだろうか。たしかに仕組みによって、従来よりはましになるかもしれない。でもそれは、森林に住む人々がつくった仕組みではない。なにを「森林」とするかを地域の外(上)から決めるという点では、近代におこなわれたことと同じではないか。
 また、仕組みをつくるだけでは、「環境に優しい仕組みをつくった」(が、現実はよくならない)という免罪符になってしまう可能性もある。
 たとえば、「ESG投資」(環境・社会・ガバナンスを重視する投資)が増えているといわれるが、日本では定着していない。「環境破壊や、社会的マイノリティ差別をする企業は、日本社会ではゆるされない」という市民側の行動が弱いからだ。「環境に優しい商品を買えばよい」「(企業ではなく)個人のライフスタイルを改善すればよい」というのが「環境マインド」だとされている。これで本当に森林をまもれるのだろうか。

 この本では、答えは示されていない。実にすっきりしない本である。
 なぜかというと、これが新しい問題だからだ。これまで先進国は、あるいは科学的森林管理を目指す林学は、こうした問題があると認識してこなかった。しかし、森林に暮らす人々の訴えで、それが無視できない時代になったのである。
 私たちが学ぶべき新しい分野、取り組むべき課題に、明瞭な答えがないのは当然だ。この「すっきりしない感じ」を大事にするのが、大学である。
 まあ、それにしても、もうちょっとはっきり書いてほしいとは思うのだけど。
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© 2021 三木敦朗