森林・環境共生学にについて話したこと
大学で役立つ、いくつかのテクニック
2021年4月6日(新入生ガイダンス)
信州大学 共通教育56番講義室
 学生委員なので、大学生になったみなさんに、大学生の「心がけ」を話しておこうと思います。
用語を大学生に切り替える
 頭を「大学生」に切り替えるには、まず用語を変えてほしい。
 信州大学の「生徒」と言う人がたまにいますが、あなたは「学生」です。法律上もそうなってます(学校教育法、国立大学法人法)。
 アパートから大学に来ることは、「学校に行く」ではなくて「大学に行く」と言ってほしい。「次の授業」も「次の講義/演習/実習」のように呼び分けて下さい。学校・授業でも間違いではないですが、これまでと違う環境にいることを言葉の上でも自分にわからせる。
 それから、細かいことなんですけど、大学の教員はみんなが「教授」ではないです。私は「助教」だし、みなさんの学年担任のUさんは「准教授」、コース長のHさんは「教授」です。会社員だって、みんなが「課長」ではないでしょ。それと同じ。職階は顔を見ただけではわからないので、呼び止めるときは「先生」と言ったほうが無難です。名前おぼえなくていいし(笑)。
コースの人は、同じ話題があるなかま
 大学は自由なところです。大学で学生が何を学んでもいいというのは、日本国憲法でも保障されています(第23条「学問の自由は、これを保障する」)。多分あなたのこれまでの人生で最も自由な時間ですから、学生のあいだに、新しい挑戦をしましょう。一人でできないことは、仲間をつくってやりましょう。
 ここにいる40数人は、「森林・環境共生学」に関心がある人です。「森林・環境共生学」の中身はまだ分からないかもしれないけど、ともかく何かの関心はある。これは共通の話題になるわけです。そのことに自信を持ってください。隣の人も、何か関心を持っている。
 高校までだと、何かに関心があるというと「ガリ勉」だとか「真面目」とか茶化されたかもしれませんが、大学は学問をするところですから、学問に関心を持っている人を私たちは歓迎します。
大学は学生のもの
 さて、大学とはどんな場所でしょう。University って言うけど、もともとはどういう意味なんでしょうか。
――総合大学?
 今ではそういう意味ですね。インターネットの語源辞典(Online Etymology Dictionary)で調べてみると、もとはラテン語で「団体」とかいう意味だったそうです。英語の Universe と語源が同じで、集まったもの、ということらしい。では何の集まりかというと、「師匠と学生の団体」(universitas magistrorum et scholarium)だそうです。
 この「Universitas」(ウニベルシタス)が、いまの大学のもとです。中世の市民が、何かを学びたいと思って団体をつくり、そこに僧侶など知識を持った人を招いた。これがもともとのウニベルシタス。
 今だと「信州大学に“入った”」と表現するんですけど、歴史的にみれば、大学という既製の容れものに学生が入るのではなくて、学生がいるから信州大学がある。大学とは、何かを知りたいという、学生の要求でつくられるものです。

 高校までの先生がたと、大学教員との違いは何でしょうか。
――公務員かどうか? あ、私立高校もあるか。
 そう。私立もあるよね。ちなみに現在では国立大学の教員も公務員じゃありません。
 大きな違いは、高校までの先生は免許を持っているということです。教えることについて専門教育を受けた人がなっている。一方、大学の我々は無免許なんです。
 大学教員は、偉そうにしてるけど部活の先輩みたいなものです。「森林・環境共生学」を、みなさんより何年か早くプレイしているから、そのコツについて後輩に言う。教えること自体は目的ではなくて、最終的には一緒にプレイすることを望んでいます。
 大学では、「世界(自然や社会)は、なぜこうなっているのか」を問い、学生・教員の立場をこえた自由な議論をするところです。「教員が持っている“正解”を、学生がおそるおそる探るところ」ではありません。

 最近、質問するときに「○○という認識で合っているでしょうか?」と訊いてくれる人がいるのだけど、質問は「○○ですか?」と簡単にしてほしいです。
 「クジラは魚ですか?」と訊ねられたら、「いいえ、哺乳類です」と答えればすむ。しかし、「クジラは魚という認識で合っているでしょうか?」と質問されると、質問内容は「クジラが魚かどうか」ではなくて「そういう私の認識は正しいかどうか」なので、「あなたの認識は間違っている」と言わねばならない。「あんたの認識は誤っている」というのは、つらい答えです。そんなこと言いたくない。だから、お互いのために「クジラは魚ですか?」と訊いて下さい。
 言葉は長くすれば丁寧になるわけではないです。そりゃあ、机に足をばーんと載せて「クジラは魚かよ!?」とか言われたら、こっちも「なんだと!?」と思いますけど(笑)、「クジラは魚ですか?」で十分丁寧です。
ノートを採る技術
 そういうわけで、大学には「要求する学生」と「議論する学生」が必要です。
 だから……今までの話をノートに採っていなくても、それは学生の自由です。大学では、「ここは試験に出るからノートに書いておくように」とか言いません。学生が寝てても起こさない。どうするかは学生の自由。
 まあ、学生がノートを採らないというのは、「三木の話は書きとどめるに値しない」という意思表示でもあるので、私は家に帰ってからめそめそするんですけど……。

 大学でのノートの採りかたには、技術が必要です。高校までは、板書をそのままノートに書き写せばよかったですよね。大学ではきれいな板書はしないことが多いです。ホワイトボードの上に書かれたことだけノートに書く人がいますが、それでは駄目です。話す内容も含めて書くんです。
 一方で、大学のノートは、自分だけが読めればいいので、きれいに書く必要はありません。ただし、帰ってから、ノートに加筆する必要はあります。途中で終わっている言葉を補うとか、正しい漢字に直すとか。
 ノートは後で読み返します。来週の講義ノートをテスト期間(7月末)に読むと、きっと意味がわかりません。だから、何ヶ月か後の自分にむけて、意味が通るように加筆するのです。これが大学での「復習」です。

 私のノートの例を示しておきます。Yさんの樹木組織学の講義を、学生と一緒に受けてみたときのノートです。
 端っこにトトロっぽい絵がありますね。樹木の枝は成長しても高さは同じ。映画「となりのトトロ」の夢のシーンのような、ぐわーっという生え方はしない。だからトトロが「うそです 夢なので」と言ってる落書きなんですけど、時間が空いたのか、隣に味噌の絵とともに「みそです」と書いてある。これ、後で読み返して「味噌と樹木とにどういう関係が?」と、しばし悩みました(笑)。そうならないように加筆する。
 だから、ノートはぎっしり書いてはいけません。加筆のために、適当に白いところを残しておく。
 投影されている図や、配布プリントの図も、簡略化してノートに書き写しておくべきです。そうしておかないと、「ノートのこの文が、配布プリントのどの図のことに該当するのか」が数ヶ月後にわからなくなります。
 講義を受けながら、思いついた疑問も書いておくとよいです。あとで「○○について論じよ」みたいなレポート課題が出たときに、「私はこの点が疑問である」と書けるので。あとから論点を思いつくのは大変です。将来の自分の助けになりますよ。

 人類が十分な栄養を摂れるようになったのは、つい最近のことなので、たぶんヒトの体はエネルギー消費を節約するようにできています。
 講義で、資料はこうやって前に投影される、プリントで配布される。これで何も書かなくていいや、と思ったらどうなりますか。おまけに「こんなに教室が明るいと、プロジェクタの絵が見えにくいでしょう」と、ご丁寧に照明まで消してくれる(笑)。
 今はまだ新鮮な気分だから、みんな起きてるけど、きっと寝ますよ。学問というのは論理なので、「AだからB、BだからC、CだからDですね」と展開していく。寝ると「Aだか……Dですね」となって、まったく理解できなくなる。単位はとれない。
 イスに1時間半も座ってるだけなら、寝るのは仕方ないです。あなたのスマートフォンだって、しばらくいじらないと画面が消えるでしょう。本能が、「体は何もしていないな、よし、今のうちに眠っておけ!」と判断するのです。それを防ぐためには、ノートを採って、体に今は寝る時間ではないと理解させるしかない。
 ノートを採ってても寝るのなら、それはもう、理由が別のところにあります。前日、夜遅くまでゲームしてたとか。そのときは寝るしかありません。

 ところで、今日は座席を指定したから最前列も埋まっているけど、ふだんは学生は講義室の半分より後ろに座りたがります。そんなに離れなくても、大学教員はいきなり人を噛んだりしないんですが(笑)。
 私たちがサバンナにいたときに、遠くのライオンより近くのハイエナに注意するように進化してきたはずです。遠くのものに関心を持ち続けられるようにはできていないのです。後ろの席に座ると、関心は薄れる。点数は低くなる。
 自分の興味のど真ん中の講義なら、どこに座っても同じだと思いますが、関心が薄い講義ほど、前に座るようにしてください。そうすれば、本能が近くのハイエナだと思って注意をし続けてくれるはずです。
引用する技術
 もう一つテクニックを。
 レポートの書き方については、(新入生に配布される)『新入生ハンドブック』に書いてあります。今日はその中でも、レポートを読む側が職業柄どうしても気になることをお伝えしておきます。
 それは、引用をきちんとする、ということです。
 なぜかというと、科学というのは「巨人の肩の上に立って遠くを見る」行為だからです。私たちが研究できることは小さいが、これまでの人たちの上に少し上乗せすることはできる。だから、科学では、これまでの研究をリスペクトすることを大事にします(先人の研究が「正しい」かどうかは別です)。これは、自分の考えたことと、他の人が考えたことをしっかり区別する、ということです。
 たとえば、ある本の文章について、レポートに次のように書いたとしましょう。
自然は均質ではなく多様だ。なので、それをもとに作られる人工物も多様。文化はその上にできるから、文化の多様性とは自然の多様性でもあると思う。なので、xxxxxxxx
 行頭が1文字下がっていないとか、レポートに「なので」という口語を使っていることなどが問題点として指摘できますが、一番いけないのは、他人の文章を自分の文章であるかのように書いている点です。
 次のように書けばいいのです。
 アルド・レオポルドは、次のように指摘した(レオポルド『野生のうたが聞こえる』講談社、1997年、294頁)。原生自然は均質ではなく多様である。したがって、それをもとに作られる人工物も多様である。文化はその人工物の上にできあがる。「文化の豊かな多様性は、素材となった自然の多様性を反映している」のである。
 つまり、xxxxxxxx
 レオポルドの本の文章を、自分の文章とは区別して要約し、とくに重要な言葉については「 」で原文のまま引用しています。出典も明記されている。
 アルド・レオポルドは、次のように指摘した。
 原生自然は、均質な素材であったためしがない。実に多種多様であり、それを元にでき上がった人工物も非常に変化に富んでいる。〔……〕世界の文化の豊かな多様性は、素材となった自然の多様性を反映しているのである。(レオポルド『野性のうたが聞こえる』森林書房、1986年、290頁)
 つまり、xxxxxxxx
 何行かにわたって原文をそのまま引用するときは、このように一段下げる(インデント)とよいでしょう。引用文中の〔……〕は、原文を省略したことを示します。
 こうすれば、レポートを読む側は、これまでの研究を尊重しているなと感じるし、レオポルド(環境倫理学で重要なはたらきをした森林官・造林学者)を読んでいるとは殊勝な、と思うわけです。
 レポートに図表をつけるときも同じです。そのデータは誰がとったものなのか。データからグラフに加工したのは誰なのか。たとえば「出典:伊那市観光協会のデータから筆者作成」などと図の下に書くわけです。図表のタイトルも付け忘れがちなので注意してください。

 なぜ大学でレポートを課すかというと、科学の方法の訓練のためでしょう。だから、引用をきちんとするという、科学の作法を破っているレポートは、どんなに長くても、どんなに格好よくても、駄目なのです。
――一般常識みたいになっていることは、どうやって引用するのですか。
 なるほど。万有引力の法則をレポートで使うために、わざわざニュートンを引用しなければいけない、というのはおかしいですね。「樹木には陽樹と陰樹がある」みたいなことは、誰かが発見したことには違いないけど、引用元を示すのは難しいでしょう。法則として認められていること、教科書に載っているような一般的なことについては、誰でも知っているものとして書いてよいです。
――自分の考えだと思っていたが、実は先人が考えていたことだった、というときはどうするのですか。
 そういうこと、よくあります。それは自分の考えとして書いてよいです。駄目なのは、明らかに他人の考え・データだと(書く人が)知っているのに、自分のものであるかのように書くことです。
「問い」をたてる技術
 大学での学問は、私は「問い」の技術を身につけることだと思います。
 森林・環境共生学に「興味」(それを面白いと思うか)があるかないかは、あまり重要ではないです。もちろん、興味があるにこしたことはないですけど、今はそれほどなくてもいい。でも、「興味」の薄いことに対しても、「問いをたててください」と言われたら、いくつか考えつくようになってほしいのです。これは技術、テクニックなので、訓練すれば誰でもできる。
 「興味」は心の動きなので、それまで興味のなかったものを、いきなり面白く思えというのは難しい。でも、問いをたてることができれば、その対象に興味がわくのです。興味があるから問いがあるのではなくて、問いをたてるから興味がわく。
 だから、「私はこれに興味がないから」と思って、考えるのをやめるのは避けてください。興味があろうがなかろうが、問いをたてられる。その技術を身につけてほしい。

 農学部の近くに、高遠城址公園という桜の名所があって、毎年多くの観光客が来ます。咲いているのはタカトオコヒガンザクラです。これが、2020年は3月30日に、2021年は3月26日に開花しました。他の地方のサクラと同じく、開花が早まっています。
 なぜでしょうか。これを「問い」にしてみましょう。
 まあ、ふつうに考えれば、温暖化の影響ですよね。たぶん実際もこれが原因です。でも、大学生としては「それは本当か?」ということを問うてほしい。
 実際に確かめてみましょう。伊那市観光協会が、過去の開花日を公開しています。これをグラフにしてみると……たしかに開花日は早くなっています。1984年は4月26日に開花していたそうですから、40年弱で まる1ヶ月も早くなりました。
 なるほど、やはり温暖化の仕業か……とはならないですね。ここに示したのは、「開花日が早くなっている」という事実だけだからです。
 開花日を早くする原因は、他にも考えられるでしょう。例えば、この40年間で、サクラの樹も40年、歳をとったわけです。高齢者が早起きになるみたいに、高齢のサクラは早く咲くのかもしれない(笑)。また、高遠城址公園のサクラは、きちんと管理されています。もしかしたら、肥料をやったので早く咲くようになったのかもしれない。客が来て根元を踏むので、ストレスで早く咲くのかも。
 こうした、「もしかしたら、こうかもしれない」という仮説を、仲間とあれこれ考えるのが、大学の面白さの一つです。「正しい答え」なんかどうでもいいです。

 なぜかというと、「もっともらしい説明」に対して「本当にそうか?」という問いを発することが、学問の出発点だからです。これを「批判」(クリティーク)といいます。日本では批判は好まれないですね。非難と混同されている。でも、漢字を見て下さい。批判は、「非」難したり「否」定することとは違うんですよ。
 「本当にそうか?」と批判することを通じて、科学は発展してきました。学問とは、誰か偉い人の話を聞いて、それをそっくり覚えたり、「感動」したりすることではありません。なにか話を聞いたら批判する。批判があるから科学なんです。
 たとえば、クリという樹がありますね。クリは、風媒でしょうか虫媒でしょうか。蜂蜜がとれるので、虫が花粉を運んでいるのだろう。でも、一部は風でも運ばれているのではないか、と考えられているそうです(原正利『どんぐりの生物学』京都大学出版会、2019年、103ページ)。一般的には虫媒とされるのですが、それを「本当にそうか?」と考えた人がいるということです。それが新しい発見につながる。

 では検証してみましょう。気象庁のホームページから、高遠城址公園に近い観測地点の毎年の3月の平均気温を取り出します。
 縦軸に開花日、横軸に3月の平均気温をとって、各年の点を打ってみると……だいたい直線的に並んでいますね。3月が暖かいと、開花日が早くなる。
 ……と言っていいのか? ここでも「問い」が出ます。3月の平均気温が高くなることと、開花日が早くなることは、同時に進んでいるらしいので相関関係がある。でも、因果関係があるとは言えないのではないか。
 テレビの普及率と、平均寿命だって、同じグラフは作れます。テレビは昔はなかった。今はどこにでもある。平均寿命は昔は短く、今は長い。でも、「テレビが普及した“ので”平均寿命が延びた」というのは、明らかにおかしいですよね。気温と開花日も、そういう偽の関係なのでは?
 なぜこの疑いが晴れないかというと、冬が暖かくなったことによって、どのような仕組み(メカニズム)で開花が早まるのか、ということが説明されていないからです。
 また、平均気温と開花日のグラフを、造林学(樹木の生態)が専門のSさんに見せたら、すぐに「これはおかしい」と言われました。「3月26日に咲いた理由を、3月1~31日の平均気温で説明するのは変だ」というわけです。「ちッ、細かいなァ」と思うのですけど(笑)、たしかに言われてみればそうです。

 こういうことを繰り返して、だんだん本当のこと(科学的真理)に近づいていくわけです。
 実際の研究ではどうなっているか、調べてみましょう。「J-STAGE」というのは、国内の様々な分野の研究が検索できるデータベースです。誰でも使えます。みなさんも、2年生になったら、これを使ってレポートを書くようになるでしょう。
 ここで「サクラ 開花 温暖化」と検索してみると、たとえば、松本太「近年におけるサクラの開花と冬季の温暖化」(『日本生気象学雑誌』54巻1号、2017年)という論文が出てきます。ここでは、ソメイヨシノの開花日は、おおむね3月の平均気温の高低で説明できると書いてあります。一方で、冬が暖かいと、逆に開花が遅れる傾向もあるらしい。寒さで休眠が解除されるので、冬は寒くないといけないのです。灯りをつけっぱなしの部屋にいたら朝が来たのが分からなくなって、遅刻するようなものでしょうか。
 ただ、この研究だってソメイヨシノについて書いたものです。タカトオコヒガンザクラは別種(の雑種)なので、そのまま当てはまるかはわからない。

 単に「サクラの開花は、おおむね3月の平均気温で決まる」ということだけ講義で習ったら、たぶん明日には忘れてるでしょう。問いを自分でもてば、「なるほどそうなのか」と覚えやすくなる。
 このとき、自分がたてた仮説が合っていたかどうかは、どうでもいいことです。私の経験だと、仮説は外れていたほうが、自然や社会の仕組みに驚けるので、うれしい。
 このあいだ、手術をしました。お腹を切って大腸を縫ったのですが、そのあと生理食塩水を何リットルも腹に入れて内臓を洗ったらしい。手術後には、ドレーンという管を腹から外に伸ばして、液体を排出していました(腹腔ドレナージ)。
 4日ほどたったときに、医師がそれを抜きに来たのです。管を一気にズルっと抜くと、部屋から出ていっちゃった。ちょっと待ってよ! こーんな太い管が入ってたんですよ。穴を縫わないの!? 私の仮説では、あいた穴から内臓が出てくるかもしれないわけです(笑)。気が気じゃない。急いで検索しました。そうしたら、新米の看護師さんも同じ疑問をもつらしくて、看護師の情報サイトに書いてありました。腹膜と筋肉の、穴の位置がすぐにずれるから、縫わなくていいらしいんだよね。なるほど! この仮説が外れた驚きは、たぶん一生忘れないでしょう。
――その説明も本当ではないかも。
 たしかに(笑)。まだ内臓は出てきてないですが。


 さて、今日の話のまとめです。
 こうした学びは、一人でもできますが、いかんせん効率が悪いです。
 なにか新しいことがわかった、という驚きを、一人でかかえてベッドに入るのはさみしい。やはり誰かに言いたい。そのほうが自分もよくわかります。また、学んでいて何かわからないことがでてきたとき、仮説をたてるとき、一人ではいい考えがうかびません。「三人寄れば文殊の知恵」です。学ぶ仲間がいれば、ずっと面白くなる。
 でも、「私はいま、こんなことを疑問にもっているのだけど」と話すのは恥ずかしいと思う人もいるかもしれない。
 あなたくらいの年齢のときは、自分は他の人と違うのだと思いたいものですが、考えていることが、そんなに違うことはないです。あなたが「ともに学ぶ仲間がほしい」と思うなら、あなたの近くの人も、そう思っています。そこに自信をもってほしい。
 あなたの、なにかを知りたい、なにかに取り組みたいという要求が、大学をつくります。まずは、あなたの「○○をしたい」ということを、近くの人に話してみましょう。そのお手伝いを、私たちもできたらと思っています。
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© 2021 三木敦朗